祖母の生きた大正昭和を5人でかえりみる ~2 父からみた祖母~
私は父母の5番目の子どもで、男ばかりの末っ子だ。
昭和初期生まれた。
もの心ついた頃から、ただただ食べるものが無く腹ペコであった。
2つ上の兄とよく連れ立ち、東京雑司が谷の原っぱを歩き回り、石を蹴ったり投げたりして虫を捕まえたり、草を食べてみたり。
ある時は野犬に追われた怖い思い出もある。
親戚の家などに疎開できない子のための、学校単位での疎開では長野県へ
兄とともにのがれた。
地元の子どもとは、委縮してしまい仲良くなれることも無く、取り囲まれて
からかわれたり、腹一杯食べることも出来ず、嫌な思いが多い。
兄には騙されて食べ物をふんだくられたり、散々であった。
この時の弱肉強食との思いと、淋しくひもじい思いはずっと忘れられない。
父は戦後無事に戻ってきた。騎馬隊であったそうだ。
父の記憶はあまりないけれども、最後は電気工業系統の仕事に就いていた。
母はいつも食料を得るためか駆けずり回っていたようだ。
終戦の年、5人の子ども(上から16歳~9歳まで)を抱えて大変だったろう。
わたしたち一家の親戚縁者は近隣にはおらず、今でいう核家族だった。
父は福島の農家の次男で、母も新潟の農家の7女、共に東京へ出た来た者であるから。
今思えば援助を求める人が近くにいない代わりに、舅姑や小姑問題が無く、母は気楽であったかなあ。
だんだんと復興していくころ、兄ふたりは次々学校を受験、医学を志す。
母は農家の出ではあるが、東京の女子の大学を出た人で、そのプライドを持ち続け、自身の男の子は、全員大学に通わせたいと考えていたようだ。
どの家もそうだと思うが、跡継ぎの長男への期待や、その待遇は格段に高い。嫉妬にかられる程だ。
長兄は医者となったし、次の兄、その次の兄も薬学へ進んだ。
一段と母の自尊心は高くなるが、私の順番が回ってくる頃には、財や熱を投入する意欲が少々失われてしまったようで、医学部に落ちた私を浪人させてはくれなかった。
いつも割を食って損ばかり、悔しい思い出いっぱいだ。
そうして大学卒業後、父の勧めもあり電気系技師として就職する。
結婚は母の進める見合いで、29歳の時。
短大を出たばかりの女性。母が選ぶ女性は皆、学のある人のようだった。
真ん中の兄だけは独身を通したが、他のは皆 そういう女性と結婚した。
母のお眼鏡にかなう人なのだろう。
ずっと、学業への導きやお見合いなど、主導権は母にあるようだ。
母がこの家の家督相続をしてから、財産目当てに寄ってくる男は
少なくなかったようだが、その中で入り婿してもいいよと
財産名義など変えなくていいよと いう人はこの父だけだったそうだ。
孫の顔を3人見ただけで、父は突然亡くなってしまう。
独立した生活の今、母に依存することもないが、
その教えは守っている、
永藤の家は江戸末期から続く由緒ある家で、それを継いだのだから
誇りを持ち生きなさい。
私は帯刀を許された家の出で、大学で学業を修めて家督をついだ
この血を継いでいることも大切にしなさい。
この戦後を生き兄弟みんな大学を出たこと胸を張りなさい。
そしてプライドよりも自分を大切に、心を強く持ち、自死はいけない。
どんなに辛くとも、自死はいけない。残された者の気持ちも考えなくては。
という思いは、お姉さんのひとりがそういう亡くなり方をしたからだと言う。
最後には、
自営業の兄が、母の大切にしていた地権の名義を勝手に変えて、処分し、
自分の債務を返した。それでも返しきれずに兄は自己破産となる。
そうしたショックからか、母は認知症を発症してしまい、94歳でこの世を去った。