祖母の生きた大正昭和を5人でかえりみる ~3 祖母 本人~ 大正13年 縁故のない家の家督を相続した女子大生
私の兄弟姉妹は9人いたことになる。うち3人は6歳前後で亡くなっている。
私は7女で、下からふたつめ、一番上の姉とは20歳以上離れていた。
なので、父母と祖母、歳の離れた姉ふたりと兄、年の近い姉ふたりと
6つ下の妹と、10人でひとつ屋根の下で暮らしていた。
私の家は新潟の比較的大きな地主農家であった。ここで私は明治38年に生まれた。
所有田畑の計測管理やその地代の管理、小作人達の相談事などを家族ぐるみでしていた様に思う。
なぜなら、私が物心ついた頃に父は亡くなり、兄弟姉妹のうち男は兄ひとりで、まだ20歳前後の学生であったから、
上の姉たちが家の仕事をこなしていくより他無かった。
女は20歳そこそこでお嫁に行き、家の中の仕事をするのが常識のように
されていた時代、我が家の女達は家でも外でも働いていた事になる。
当時かなり目を引いていた存在であったろう、と想像する。
この頃私はまだ小学校に上がったばかりで、上の姉様には
構ってもらうこともなく、顔を合わせるのは朝夕の食事どきだけであって、
そこでも箸の上げ下げを注意されないよう、緊張していた覚えがある。
私の世界は、2つ上の姉と小学校へ通う事、母とおしめを当てた妹を世話する事、10歳上のお洒落な姉の姿や持ち物への関心、で満たされていた。
亡くなった父の方針であったのか、土地持ちということで余裕があったからか兄姉皆、高等小学校以上へ進学をしている。
兄も、私たち妹に学業を勧めてくれた。
2つ上の姉は地元の女学校へ通い、この姉は、私へ東京への学校行きを強く勧めてくれた。
家族や学校の後押しもあり、ランクを上げた勉学と都会への憧れもあって、
受験に成功。東京市小石川の女学校・寄宿舎へ
大正11年に進学・上京することになった。
親戚縁者も誰もいないのに、よく思い切ったものだと我ながら思うが、
よく当主である兄も、周りの目を気にせず認めてくれたものだ。
(この学校は戦後に大学を名乗る事を許されるのである)
新潟の郡部から東京市へ、学生生活に慣れたころ、大正12年9月に
関東大震災が起こってしまう。
お昼どきで火を使っていた為か、家の密集地が酷い火災につぐ延焼で
特に、本所区・深川区・浅草区で多くの建物が焼失し、沢山の人が亡くなった。
私たち学生は無事避難でき生き残ったが、家や家族を失った人も多く、
交通機関の損失も麻痺もあり、混乱の中しばらくは授業どころではなかった。
ここで兄の話である。兄は私の16歳上で、この時35歳。
新潟にいる時は、親しく話したことはほとんど無く、
大人と子ども という関係であったように思う。
その兄が心配して何度も連絡を寄こしたり、上京して見舞ってくれた。
そのうち、どのような経緯か今となっては確認も取れないのだが、
大学側と兄と、私とで話の場が持たれた。
この震災で、一家もろ共亡くなってしまった家があり、
親戚縁者も見つからない為に、この私に家督相続人とならないか。
というお話であった。
あの東京中が混乱した時分、19歳の女学生によくそのようなお話がきたものだと思う。いや混乱期だからこそ来たのだろう。
ただ驚いた。
大学を卒業した後といえば、教職につく・お嫁にゆく、といった漠然とした
思いは抱いていた。姉達を見て、いづれは家を出なくてはいけない身であると判ってはいたが、このような展開になるとは思いもよらなかった。
町家での場合、女子を跡継ぎに指定することもおおいそうだ。
そして困窮した家の者であれば、瞬く間に継いだ財産を使ってしまうだろう
から、相応の財を持つ家の子女で優秀な人、という人は、
この時分、意外と多く的にされたのではないだろうか。
もう私の耳に入る時には、兄は引き受けようと心に決めているようであった。家長の同意なしには、この歳の女は何も決定はできないのであって、
受けるように、という兄の説得に次第に私も同意をすることになる。
勿論まだ私は学生の為、兄の支援は欠かせない。
新潟の家も守らなくてはならないのに、兄は私の後ろ盾になるべく、
暫く東京で暮らすことと決意していた。
そうして私は、永藤家の家督相続人となり、永藤家の養女となった。
兄は次に何をしたかといえば、お嫁さん探しである。
元々意中の人がいたのか、全く関知しないが、半年も経たないうちに
お嫁さんと共に、東京の私の近くに越して来てくれた。
全く兄の行動力には驚くが、この兄嫁のミサオさんにも大層驚くこととなる。同じく新潟の女性で私より5つ年上なのだが、あっという間に都会の生活に適応していく。
震災の後の東京の復興には、目を見張るものがあり、若い私たちには大層刺激的であった。
ふたりの援助を得て、まずは永藤家一家の供養を執り行う事と、お墓と財の管理をする。
時期大学も再開されたので、学生としても励み生活も落ち着いてきた。
兄夫婦にはその後、次々と子どもが生まれ、大層にぎやかな家になってくる。
兄は益々忙しく、川崎や荏原郡馬込・東京府品川宿・等の地に赴いて多様な
仕事で収入を得ていた。現金収入があることは農家にとっても重要で、新潟の家にも送って生活を支えていたようだ。
私は無事に大学を卒業し、教職に就くことになる。
永藤家の家督を相続したといっても、その商売を継ぐことは出来なかった。
財産の目録や家系図はあったが、役所の書類などもろもろ焼失している。
昭和の初めに入っても、女が戸主であることはどうも塩梅が悪いらしく、
早く結婚をして、男が戸主になることを勧められた。
だが見合いを求めてやってくる男達は、どうも財産目当ての者が多く、何年も困ってしまう場面が続く。
兄も、慎重にと、眼鏡にかなう者と分かるまで、入籍はしないという方針だ。私も、教師の仕事はしてはいても、結婚して子を残し、家の財を継がすことはもっとも大切なことだと思っていて、この人はと思う人を探します。
そうして出会った人、福島の農家の次男で、財産はあなたが管理すればいいよ、という夫と、長男を出産後に入籍することになる。
この間見守ってくれた兄夫婦とその子供たち5人は、足掛け8年ほど東京で暮らした。
私たちの様子を見届けて、新潟の実家へ戻ることになる。
この兄夫妻の存在がなければ、どうなっていただろうか。
また、実家の兄の留守を守った、母とすぐ上の姉と妹、には頭が上がらず、
感謝の念しかないのである。