ギャンブルの小話③.誰かが三万円を得て、あなたは一万円を失う。
今回のテーマは、私自身も活動の場として身を投じているSNSの話。予想をする側、見る側においてどう付き合っていくべきサービスなのかということについて掘り下げたい。
テーマ3.誰かが三万円を得て、あなたは一万円を失う。
「比較は喜びを奪う」。セオドア・ルーズベルト元米大統領の言葉から。現代のSNSを揶揄する場面で用いられることも多くなってきており、それは時が経つにつれてその意味を深めていってるこの言葉を反芻するタイミングなのではないかと思う。
あなたが朝目覚めてまずすることは、カーテンを開ける、歯磨きをする、コーヒーをドリップする、昨日買っておいたドーナツを一口食べるなどなど。さぁ、この一連の間にあなたは何回スマホをチェックしただろうか。1回? 2回?はたまたそれ以上か。
この記事に辿り着いた読者のあなたは、定期的にSNSを利用し(それは週末の夜かもしれないし、はたまた平日の昼休みかもしれない)、タイムラインに流れてくる予想に触れる機会がいくらかある人が多いかと思う。
たまたま見つけた予想家の予想に飛びついて一万円勝ったとしよう、おそらく心はラッキーで埋め尽くされることになるだろうが、コメント欄を見ると、どうやら同じような人がたくさんいるようだ。
ちょっと目を離したすきにもう一つ予想が上がってて、それはどうやら自分だけ乗り遅れてしまった。それも的中してどうやら、みんなさらに二万円勝てたらしい。
さてさて、今あなたの気持ちはどうなっているか想像してほしい。一万円勝ってるにも関わらず、なぜか負けたような気持ちになってはないだろうか。悔しくなって目の前のよくわからないギャンブルをしてその一万円もろとも、さらにはお小遣いの一万円も無くしてしまっているかもしれない。
この不安感を言語化するとすれば、「人は自分が得したり損したりするよりも自分以外の誰かが得をすることを恐れる」ことなのではないかと思う。
これは、人類がまだ小さな集団で生息していた時代から刷り込まれてきてる本能で、情報を受け取れない情報弱者に回ると、集団の中で淘汰されてしまったことに繋がる。例えば、あそこの木の実には毒があるなど。ましてやその情報があれば集団の中で重宝されることにだってなった。だから物知りな老人は重宝された。
なので、私たちがSNSに身を投じて年齢問わず躍起になってしまう所以というのは、自己承認欲求なんて欲求では事足りずもっと深い生存本能の部分を刺激されているからだということを認識してほしい。
私たちは限りある命と時間を削って得たお金でそれの取り合いをしているわけだ。生きるためにはギャンブルは勝たねばならない。だからこそ自分しか知らない情報に価値があるわけだが、それに自分の身を焦がされてしまっては本末転倒になってしまうことは双方理解しておかねばならないだろう。