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因縁果報と選択を間違えない方法とは

安岡正篤先生の言葉で、こう言う教えがある。

「人間にとって、縁起というぐらい、縁ほど大事なものはない。「原因(因)があり、それが何かの条件(縁)に合って、さまざまな結果(果)として現われます。そして、その果は、必ず何らかの影響をおよぼします(報)」すべて縁から起こり、因が果を結ぴ、果がさらに報をつくる。それに従って世情、世の中の情、真がある。人間には知と情がある。知とは頭の働きで、主として理性の働きである。これに対して情は人間の精神をそのまま表現するもの、理は物事を分析するものであるから、理だけでは、とかく理屈に走りやすい。ちなみに「痴」という字がある。人間の知というものは、知的になればなるほど危険であるということだ。その意味でも概念的なあるいは論理的な知識・知能・知術というものは、よほど注意しないと誤りやすい。
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今日は大昔飼っていた犬のお参りにと、お墓に行きその後、従業員とちょっとした慰労会をした時、ふと思った。

30年前に死んだ愛犬ピットブルと、慰労会をした従業員も、ほんの1分、時計の何かがずれていたら会える事なくご縁はなかった。

そうすると今、私は違う人生を歩んでるだろう。
犬を飼う事により動物への愛、死への悲しみを知り、又この従業員と知り合ったからこそ、社内トップの売り上げを上げてくれ、今のレクサスに乗れた。

私は大したことなど何一つしていない。しかしご縁は大切にして、必ず御恩を返す。ただお返しした事は忘れてしまう癖がある。

次に私は誰とでもお付き合いはしない。縁を大切にし、お付き合いする時は、その価値観やビジョンが同じか。これが第一義に来る。

この世に存在するすべてのものごとには、原因(因)があり、それが何か(縁)に合い、さまざまな結果(果)として現われ、そしてその果は、何らかの影響を及ぼす。(報)。

付き合いを重ねると、上手い演技で近付き、(因)価値観はお金のみ。(縁)は私の力や人脈、自身の出世とお金。(果)は価値観がずれるので縁は切れ、(報)は新たな利己的な考えの、権力と私物化を好む、又はそう言う人を紹介してほしいと言う下心が(報)となってはならぬ。

ならぬがこれが私のさまざまな、乞食から大臣まで付き合いをしてきた上で、一番多いパターンである。

因縁果報とは必ずしも、いい事の例えだけで使われる言葉ではない。現にジムをやっているとよく分かる。

YANAGIHARAボクシングジム、又はYANAGIHARAホールディングスという、北九州ではちょっとは力のある組織に、縁があるような体で近づき、徳を積んだ様に装う。

結果うちの二十代、三十代の私の教育を受けた者は、この手には縁を感じず、こういう人達の悪口どころか「そういえばそう言う人もいましたね」。100%そうなる。

犬の墓参りに行き、従業員の苦を労い、少し打ち合わせをした。
たったそれだけの事なのに、掘り下げて考え、四文字熟語をこういう風に考え、自戒を持つ事もできる。

こう言う考えを文章にするのに半日もかかる、という事が、私がいかに今まで勉強していなかったかの証拠であり、こんな事は五分で考えず既に頭に常にないといけない。

安岡先生の言う「痴」になれば、その人はもう救われないだろう。
こんな事を考えジムに行く。毎日その日々が楽しくてたまらない



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