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あれから30年。あのとき私は隣市の生活相談員(特養)でした。

阪神・淡路大震災から30年。
ボランティア元年とのちに言われる1995年。

ちょうどそのころ、
私は隣市の特別養護老人ホームに勤める
生活相談員でした。

朝、自宅で大きな揺れを感じたものの、
通常どおり勤務していた
1995年1月17日。
共有スペースの大きなテレビ画面に
神戸の映像や情報が
刻々と映し出されたあの日のこと
(インターネットもケイタイもない時代です)

そして
生活相談員としての
その後のことは、

30年経っても
心の中で痛みを伴って
思い出されます。

何の情報もないままに
緊急のショートステイを受け入れたこと、
そのために避難所に向かったこと、
訪問入浴のボランティアで現地に入ったこと、

措置の時代だったので、
神戸市の高齢福祉担当の
ケースワーカーさんと、
受け入れたそれぞれの人の今後について
電話で話を重ねたこと、

神戸に戻った人、
施設にとどまった人、

その選択で本当に
良かったのかと、

30年経って、
彼ら彼女らの当時の年齢に
近くなって、

今までも、
今も、
私はいろいろなことを
思います。

その思いはブログで綴っていて・・・

葬儀場がいっぱいで、施設で亡くなった方のためにドライアイスを補充するのが私の役目だったこと…


もっとお気持ちをお聴きするべきだったとお詫びの気持ちとか…

ひとりよがりな訪問入浴ボランティアを振り返って反省したり…


「20年」から戦争に思いを寄せたり…

年を重ねるごとに当時の未熟さが悔やまれたり…

ブログでも書いているとおり、
当時のことは、
振り返れば
悔いばかりで、

今の私なら
少なくとも当時の私よりは
もっと深く 
その人の選択を
一緒に考えることができるのに
と思うけれど、

その後悔は、

今なお続く
震災や災害時の、

一瞬にして
「被災者」 
「犠牲者」
となることの
重みと、

社会福祉士として
どうあるべきかを考える
責務を、

考えていく糧にして
いくしかないと
思っています。

見出し画像は、1996年に発行された『大震災 共に生きる 老人ホームは安心拠点』の表紙の一部です。

高齢者施設の動きや気づきなどが綴られている貴重な資料です。

『大震災 共に生きる 老人ホームは安心拠点』の表紙


『大震災 共に生きる 老人ホームは安心拠点』の奥付


当時、ショートステイで受け入れた方々は
もうこの世にはおられません。

改めてご冥福をお祈りするとともに、
私があの世に行った時、
「本当はあの時
どういうお気持ちでした?」

今もお顔もお名前も覚えている
当時の皆さんにお会いして
尋ねたいと、

当時20代だった私と
還暦近くなった私が
ふたりで
1月17日を受け止めている気がします。

当時も今も
おだやかではない世の中
ですけれど、

少しでも、
少しずつでも、
安心できる日が
一人ひとりのもとに
訪れますように。


  フリーの社会福祉士 柳田明子

※日本赤十字社の調査です。
阪神・淡路大震災が起きた日、3人に1人「知らない」 ~『ボランティア元年』の認識も3割に届かず、若年層で認知が低い傾向~

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