待宵草
「海未……?」
振り返った先には真姫がいて、ああもうそんな時間なのかと気が付いた。部室のドアをきっちりと閉めて、机の上に鞄を置いた真姫は切れ長の瞳をぱちぱちと瞬きする。
「珍しいわね、こんなに早いなんて。……穂乃果とことりは?」
私たちはすっかりセットとして扱われていて、当たり前のように聞かれるその台詞にいつもの調子で答えを返す。
「穂乃果とことりは、まだ生徒会室ですよ。私だけ早くやることが終わってしまったので、今日は早めに来て歌詞を考えていたんです」
「ふぅん。……それも、珍しいわね」
真姫の納得していないような声色に、胸の辺りがつきりと痛む。まだ一年生だけど、彼女は賢い。心の機微まではわからなくとも、いつもと違う、それだけのことから推測することが容易なのだろう。真姫のそういうところが、私には時々、都合が悪い。
納得はしていなくても、追及をする気はないのだろう。彼女はそれ以上何も言わず、鞄から取り出した文庫本を開いて読みかけのページから読み始める。安堵と、一抹の寂しさのようなものが心の奥に生まれて、すぐに消えた。目線を窓の外に戻すと相変わらず空は灰色のまま、今にも雨が降り出しそうだった。私の胸の内のようですね、なんて考えてみてから、これでは歌詞に使えそうにはないなと苦笑する。陳腐すぎる言い回し。
「……元気ないわね」
声をかけられたから振り返ってみて初めて、いつの間にか文庫本を置いた真姫が私のことを見ていたと知った。普段と変わらないぶっきらぼうな言い方なのに、その表情には心配の色が見え隠れしている。
賢い後輩は、だけど賢いだけではない。とても優しい子。それは皆も同じだから、皆もこの子の本質をわかっている。私たちはいつも一緒にいるわけではないけれど、お互いのことを深く理解して、縛られずに心地が良い。それは簡単に作れるようなそんな関係ではない。だからこそ私はずっと壊したくないと、守っていかないとと、思ってきた。思っている。これからも。
「真姫は、優しいですね」
「……海未?」
「だから、にこはあなたを選んだのでしょうか」
「は、はぁ!? い、いまにこちゃんの話は関係ないでしょ。どうしたのよ、今日は。なんか変よ」
そんなことないですよ。そう否定しようとした一瞬、部室が閃光に包まれた。真姫とふたり、びっくりして固まっていれば、続けて地鳴りのような低い音がしてすぐに原因を察する。どうやら、窓の外ではいよいよ溜まり溜まったものが溢れ出してこようとしているようだった。もう数分もすれば、スコールになるだろう。
「今日は、練習は無理ね」
「……そうですね」
今頃、穂乃果とことりは生徒会室で、同じように窓の外を見上げているのだろうか。練習ができないと騒ぐ穂乃果を、ことりが宥めて、私が諭す。お決まりのパターンが、今日だけは少し違う。今日だけは、いつも通りでいられそうにないと思った。
穂乃果が引っ張ってきた関係を、ことりが追いかけてきた関係を、私はちゃんと守れているのだろうかと時々心配になる。もし真姫とにこのように、私たちも惹かれてやまない関係であったなら。私たちもずっと幼なじみでいられたなら。この空のように、思いの丈をさらけ出してしまえたのだろうか。
もし、もしも。私たちが、大人にならないでいられたなら。
「真姫。……帰りましょうか」
「え? 穂乃果たちのこと、待たないの?」
「ええ。この調子では、穂乃果も練習ができないことはわかるでしょうし。それに、今日は私とことりしか、傘を持ってないので」
ぽつぽつと落ちてきた水滴が徐々に激しさを増して、グラウンドを黒く染めていく。陳腐だ、と感じた。
「穂乃果が、どっちに入ればいいかわからないでしょう?」
笑いかけたと同時に走った閃光の中で、真姫が酷く戸惑ったような顔をして瞳を揺らす。それを見て、少しだけ胸がスッとした。好きなものを好きと言って、その結果、本当に手に入れてしまった。不器用で、だけど変なところが率直で。穂乃果とはまるで性格が違うのに、どこか羨ましく思えるところは彼女を彷彿とさせる。
一歩踏み出してみれば、真姫が少し震えたように見えた。怯えているのだろうか。もしも穂乃果だったら、自らの危機に気が付きもしないだろうから、やはり真姫のほうが一枚上手だと思う。
手を伸ばしてみて、こんなことは穂乃果やことりの前では一生できないと思う。ふたりの笑顔が凍りつく瞬間なんて見てしまったら、きっと。
「海未、やめて。海未!」
「……ごめんなさい、真姫」
「海未っ……、やめなさい、話なら聞くから。だから……海未」
「真姫……?」
引き寄せた腕を払われると思ったのに、逆に抱きしめられて戸惑う。真姫の香りが近付いて、一瞬だけにこの顔が浮かんだ。罪悪感というのは、おそらくこういうときに使う言葉なのだと思う。
「泣いてるわ……」
ごめんなさい、と思わず吐き出した謝罪が虚しかった。
穂乃果の笑顔を直視できなくなって、それを見つめることりの視線に気が付かないフリをするようになって、私たちがずっと一緒にはいられないと知った。この関係を守っていかなくてはならないのに、守っていこうと思い続けてきたのに。三人でいるのが辛くなって逃げ出したのは、私。私が、気付かなければ。
「ごめんな、さい」
私も好きですなんて、言えるわけがないでしょう。今更。