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【中国軍事動向】中印衝突で死亡した兵士の一人は習近平がトップを勤めた福建寧徳出身だった!:地元で礼賛プロパガンダ始動

 

 中国メディアは2月19日、突然昨年6月にインドとの国境地域で衝突があった際に死傷した兵士の5人の名前を公表し、その功績を讃える報道を掲載し始めた。祁発宝、陳紅軍、陳祥榕、肖思遠、王焯冉の5人だ。そのうち一番階級が高かったのは祁発宝で団長、日本で言うと連隊長クラスの階級で一つの連隊1200〜1700人程度を率いていた。

 皮肉なことに、祁発宝団長は頭部を殴打され、流血したものの入院を経て回復しているが、それ以外の4人は死去して「烈士」の称号を授与された。

 その中の一人、陳祥榕は福建省出身で、なんと習近平が若い頃にトップだった福建省寧徳の出身だった。

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  習近平の略歴を見ると、福建省の寧徳は大学を卒業してから仕事した4つ目の職場である。習近平は1979年に清華大学を卒業すると、中央軍事委員会の事務局である弁公庁で働き始めるが、1982年に河北省正定県の副書記として赴任する。その後、県のトップとして85年まで働き、福建省厦門市に異動し、副市長となる。そしてその次、1988年に赴任したのが福建省の寧徳だった。当時はまだ行政組織としては市となっておらず、寧徳地区と称されていた。習近平はここで90年に隣の福州市に転出するまで地区の党委員会書記やこの地域の軍管区である寧徳軍分区の党委員会第一書記を勤めた。その後、2002年に福建省のトップである党委員会書記を勤めた後に浙江省に転出するが、ほぼ15年にわたって福建省で働いたのである。

 さて話を中印国境衝突の犠牲者、陳祥榕に戻すと、彼は2020年6月に入隊からわずか1年、衝突での犠牲者のうち最も若い19歳で死去してしまう。王と肖も24歳(二人とも河南省出身)と二十代の若さだった。その後の状況は多くの報道で伝えられる通りである。

 昨年6月の衝突で死去すると空軍は輸送機を出して彼の遺体を空輸し、彼の故郷まで輸送、そして厳粛な葬儀、追悼式典を開催した。

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 陳の死去は地元寧徳にちょっとした祭り状態を引き起こした。寧徳市トップの郭錫文党委員会書記は陳の遺族を訪れ、慰問した。市の幹部や寧徳地元の軍管区である寧徳軍分区の司令員も同行した。寧徳軍分区は習近平が政治担当の指揮官である政治委員を勤めたこともある軍管区だ。

 陳の家には「一等功の家」と大々的に記した額縁も送られた。軍地協力の典型とも言うべき、地方自治体と軍の関係が大々的にアピールされる舞台ともなったのである。中国では地方幹部や自治体の成績に軍との良好な関係構築があるからこうした活動でのアピールが欠かせないと言うわけだ。

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 そして中国は国、社会において軍の役割がきまわて高く、国防動員体制と称されるいわば日本の戦前の国家総動員体制とでも言うべき制度が構築されてきたことからもこうした「英雄賞賛のプロパガンダ」は極めて重要なのである。

 偶然にも習近平が若い頃に地方でその政治手腕が磨かれた場所は、古田鎮と称される毛沢東が中国建国前にゲリラである紅四軍を率いる中で権力を掌握した古田会議の旧跡がある場所にもほど近いのだ。

 陳は一介の兵士でしかなかったが、彼の殉職とそれをめぐる政治プロパガンダによって一気に革命の聖地に祭り上げられそうな勢いである。習近平の赴任地と中印国境防衛の英雄がこういう形でリンクし、交錯しているのは偶然の一致なのであろうか。

 



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