とら
『とら』は猫である。おでこと体にとら模様が入っている。仕事帰り19時過ぎ、うちのマンションと隣接するマンションとの隙間にいつも座っている。ある時「とら」と出鱈目に呼びかけたら、その猫は近寄って来た。私がその場に蹲ると、とらは全身を擦り付けながら、私の周りをぐるぐると回った。
時折、立ち止まり私の顔を見上げる。腹が減っているのだろうか。しかし、とらの身体は程よく肉が付いているし毛並みも良い。いつもウロウロしているから野良であるとは思うのだが、撫でられても大人しくしている。そもそも、うちの町は『猫町』で野良猫だらけなのである。高校の正門前には黒猫が2匹(「ろく」と「さん」と名付けた)いつも座っているし、公園の方にはブチと白がいるし、マックスバリュに買い物に行けば通りには茶がいる。春になれば子猫も増える。猫がいるのはごくありふれた光景だ。
「疲れたわぁ。とら」と話しかけると、わかったような顔でジッと聞いている。自分はなんだか嬉しくて、帰り道にとらがいると座り込んで話しかけるようになった。
「桜、咲いていたよ。とら」
「お腹空いたよ。とら」
「失敗したよ。とら」
「眠かったわ。とら」
独り言のような呼びかけを、とらは黙って聞いている。「じゃあね、とら」と手を振ると、とらは少しだけ自分の後を付いて来て、また元の場所に戻って行く。とらはいつも私の帰りを待ってくれている、ような気がしていた。
しかし、そうではなかったのだ。今夜、私が帰って来るといつもの場所に確かにとらは居た。しかし、ひとり(1匹)ではなかった。傍には、私より少し年配の女性がしゃがみこんでいた。春物のコートを着た仕事帰りらしき女性で、彼女はいつも自分がやっているように、とらを撫でたり何かを話しかけたりしていた。とらは女性の周りを体を擦り付けながらぐるぐる回っていた。
それを見た時、自分は驚くべきことに嫉妬の気持ちを抱いていた。とらに裏切られたような心持ちになったのだ。とらと女性の横を通り過ぎ、しばらく先で振り返ってみると、女性は名残惜しそうに立ち上がって1度は歩き出したが、やはり我慢できない様子でとらの元に駆け戻って行くのが、見えた。
なんて人たらしな猫なんだ。そう思った。いや、ちょっと待て。あれ?おかしいな。何か引っかかる。とらのような人間を私は知っている。ああ、そうか。そういうことなのか…私は突然気づいてしまった。
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