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「男女の友情」論に潜む”勘違い”
新年早々、「男女の友情は成立するか?」というお決まりの話題が𝕏で話題になっていた。わたしはこの話題で盛り上がる人たちがキライで、よくもまぁそんなに盛り上がれるものだといつも冷笑(←よくない)しているのだが、それはさておき自分なりの考えがないわけでもない。
つまり、人とこの話題で盛り上がることが嫌なだけであって、この話題についての意見がないわけではない。
𝕏でよく見られる意見は、ある種の「勘違い」が友情を成立させることはある、というものだ。例えば、男性側は女性に下心があるのに、女性側は友情が成立すると「勘違い」していることで、ギリギリの均衡で友情がつかの間、保たれているという見方だ。
この意見があながち間違っているとは思わない。そういうパターンも世の中にはあるだろう。だが、わたしはこの通説(?)とは逆の勘違いもよくあると思っている。
「恋人になりたい」という感情のほうが、勘違いであることも往々にしてあると思うのだ。
(私も含め)世のほとんどの人は、人間関係のパターンをそんなに数多く知らない。だから、本当に構築したい/構築すべき関係性は「恋人」ではないにもかかわらず、それを繊細に言語化する能力がないために、「妙齢の男女同士なのだから、まぁ、最終的なゴールは恋人だな」と粗雑に一括りに考えてしまってはいないか。
そして、雑に言い切ったことのほうが「本音」っぽく聞こえてしまうことが、世の中にはしばしばある。
わたしよりも言語化能力の高い岡田斗司夫さんの切り抜きを借りるとしよう。
上記は、男女の友情を論じたものではないが、言いたい核の部分は同じである。人間とは、ときに相矛盾する様々な感情や思考が駆け巡っている存在である。にもかかわらず、その複雑性を無視して、雑に言い切ったことのほうが「本音」を突いているように感じられることがある。
「男女の友情」論でしばしば結論として持ち出される「本当は恋人になりたい」とか「本当はヤリたいだけ」といった時の「本当」とは、果たしてどれほど真理を突いているものだろうか。それは「結論として分かりやすい」というだけの、思考放棄の産物ではないだろうか。
「友情は成立しない派」がしばしば持ち出す根拠のひとつは「性欲は人間の三大欲求のひとつである」という、如何にも「科学の皮」をかぶった物言いである。わたしはこの論理が大嫌いである。
なぜなら、人間は「社会的動物」である、という事実を軽視しすぎているからである。
わたしが「三大欲求論」にいらだつのは、科学(生物学・心理学など)が過去に積み上げてきた繊細な叡智をないがしろにした極論であるにもかかわらず、一見すると、科学的な物言いのような皮をカブっているからである。(あえて物騒で極端な言い方をするならば、「進化論」の粗雑な解釈をもとに「優生学」を正当化したナチスドイツのごとき醜悪さを感じるのだ。)
人間は「社会的動物」である ―― と主張すると、それはつまり、異性に性欲を抱いてはいるけれど、それを「理性」で押さえているのが人間ということだよね、という声が飛んできそうである。
実際、その見方も間違いではないと思う。が、わたしはもっと別の角度からも考えている。
言いたいことは主に3つある。
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(1)まず、単純な生物学的な「性欲」のみによって恋愛が駆動されているという考え自体が、あまりにも単純化しすぎであると思えてならない。わたしたちは社会的な動物であり、後天的に、友人と恋バナをしたり、恋愛小説やドラマを見たり、恋愛についてのニュース記事を読んだりすることで「妙齢の男女はしばしば恋愛関係に発展するものだ」という観念を育てている。「男女の友情」論について語り合うこと自体が、こういう構図をさらに強めているという側面もある。
過激なフェミニストやLGBTQ+であれば、こうした「恋愛観」の流布はある種の「洗脳」だと言うかもしれない。わたしは「洗脳」とまでは思わないが、後天的に「恋愛観」が再生産されていることにはある程度、自覚的であるべきであり、「人間の本能」などという如何にも科学の皮をカブった一言ですべて説明した気になっている輩には、それなりの嫌悪感を感じている。
そして、重要なこととして、「男女の友情」論でしばしば盛り上がる人たちは、こうした「後天的な恋愛観の再生産/再強化」をかなり頻繁に行っている人たちである、と推察できる。だから「自分たちのお仲間」の範囲に限って「男女の友情は成立するよ~★」「いや、しないよ~♪」などと盛り上がるのはまぁ勝手にやってクレメンスだが、そこから「人間全体の一般的傾向」を分かったつもりになるのは浅はかと言うよりない。
世のなかには、後天的な「恋愛観」の再生産をそれほど強く行っていない人もいるし、そういう人はそもそも議論に参加してくる確率が低い。そのバイアスを理解しなければならない。
(バイアスを理解した上で「話の種」として盛り上がっているなら、まぁ別にいいのだが。)
【追記】2番は、主張にやや弱い点があるので、取り消し線を引きました。
(2)三大欲求のひとつ「性欲」が大きな存在である、という主張を仮に受け入れたとしよう。だとしても生物学的な「性欲」から生まれるのは「セックスしたい」という考えであって「恋人になりたい」という考えではない。「三大欲求」という粗雑な説明では「恋人になりたい」という感情を説明することができない。
よく言われるのが「男性はとにかく子種を残したいので色んな女性とヤリたがり、女性は我が身の安全が大事なのでパートナーを慎重に選ぶ」という意見である。
この意見があながち間違っているとは思わない。この仮説で説明がつくこともそれなりにあるとは思う。
しかし、世の男性はすべて、本当はヤリたがっているだけであり、「恋人になりたい」という感情はそのゴールを目指す過程で生まれている感情にすぎない、などというのは幾らなんでも暴論がすぎるだろう。もし真剣にそんな考えを主張する人がいるならば、それは、誤った前提(三大欲求は人間を絶対的に支配している)から議論を出発させて、辻褄を合わせるために結論のほうを捻じ曲げている、と言わざるを得ない。
「恋愛」というのは、かなり社会的な行動である。それを生物学的な単純な欲求で説明した気になるのは無理筋である。
(3)三大欲求をやたら主張する御仁に聞きたいのだが、あなたたちは普段「睡眠欲」についてどれほど真剣に考えているのか? 「人間は睡眠欲に支配されている」という議論が、それほど真剣に展開される場面に、わたしは出会ったことがない。「性欲」を特権化するために「三大欲求」という科学的裏付けがありそうに聞こえる用語を持ち出しておきながら、その実「睡眠欲」について真剣に頭を悩ませることはない。それっぽい説得力を持たせるために「三大欲求」という用語が持ち出されているにすぎない。
そんなに三大欲求が重要だというなら、「寝坊による遅刻は許すべきか?」が「男女の友情は成立するか?」と同じぐらい、真剣に・頻繁に議論されてもよいではないか。
わたしは、三大欲求のなかで一番、生命活動に直結しているのは「睡眠欲」だと思っている。性欲は満たさなくても、最悪、自分という個体が生きていくことは可能である。食欲は満たさないと死んでしまうが、ある程度コントロールすることはできるし、まずい料理でも栄養が摂れさえすれば生きていける。つまり美味しいものを食べたいという「食欲」は、生命の維持というより、余暇の要素が大きい。しかし、睡眠は摂らなければ確実に死ぬし、コントロールできる度合いにも制限がある。しかも1日の1/3程度はそれに費やさなければならない。
多少の個人差はあるだろうが、「生命維持に直結しているかどうか」という点でいえば、三大欲求の重要度は「睡眠欲≧食欲>性欲」の順に並べられると思う。にもかかわらず、「睡眠欲」について真剣な議論が交わされる機会はとても少ない。
…..もっとも、睡眠というのは一か所に留まって、他者との交流が起きない行為であるから、関連する話題が発生しにくい、というのはあるだろう。
「性欲」は、睡眠欲・食欲ほど生命活動に直結しておらず、「生命活動と社会的活動の中間ぐらい」に位置しているからこそ、喧々諤々の話題を生みやすいのかもしれない。
そう考えると、「性欲」をテコに用いて議論を展開することにも、まぁ、一定の理はある。(わたしは結論を完全に決めてからこの文章を書いているわけではなく「書きながら考えている」から、まぁ、こういうこともある。)
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人間は性欲だけで生きているわけではない。名誉欲、権力欲、金銭欲、物欲、知識欲….などにも左右されている。その他、分かりやすい名前のついていない大小様々な欲望 (*) も抱いている。その中でどうして「性欲」だけやたらに特権視されるのか、わたしには分からない。それは決して「真理を突いている」のではなく「思考の単純化」ではないかと思う。
わたしが「男女の友情」論にいらだつ理由の一つは、思考を単純化して安易な結論に飛びついているだけなのに、まるで「真理を突いた」かのような顔をする輩が多くいるからだ。
本当はお得なイベントや面白いコンテンツをたくさん教えてほしい(知識欲)のに「わたしはこの人と恋人になりたいんだ」と勘違いしたり、本当はみんなに褒めてもらいたい(承認欲求)のに「わたしはこの人たちとセックスしたいんだ」と勘違いしたり ―― そういう勘違いが少なからず、日本中で起こっているのではないか。
その恋愛欲求は、後天的に・社会的に植え付けられたものではないだろうか。「妙齢の男女なら恋愛関係に発展するのが普通」という、世の「普通観」の押し付けに流されてはいないだろうか。
「性欲」だの「男女の友情は成立しない」だの、単純化した断言を受け入れすぎると、自分が本当に欲しいもの、自分が相手と構築したい/構築すべき関係性を見失ってしまう。
本当に欲しいものが別にあるなら、プロポーズやセックスを繰り返したところで幸せにはなれない。デートとセックスさえしていれば幸福な輩はいくらでもやってクレメンスだが、おそらく世のほとんどの人はそれだけで幸福になれるほど単純な生き物ではなく、もっと別の何かを求めているように思う。
わたしが冒頭で「「恋人になりたい」という感情のほうが、勘違いである」と述べたのは、そういう意味だ。
もっとも、人と人との関係性を一言で説明できるワードは意外と少ない。「友情」と「恋愛」を除けば、あとは「家族愛」「師弟愛」ぐらいしかパッと思いつかない。だから、その枠の範囲内でついつい考えてしまうのは仕方ないことではあるけれど、本来はもっと繊細に考えるべきなのだろうと思う。理想論かもしれないけれど。
【* 補論】
分かりやすい名前がついていない欲望のひとつとして、例えば「プレゼントを贈りたいという欲」があると思う。
男性が女性にプレゼントをあげるとき、あわよくば付き合いたい・抱きたいという下心が全くないかといえば、ゼロではないだろう。
しかし、相手をゲットすることが「目的」であり、プレゼントを贈ることは100%「手段」にすぎないかといえば、そう単純でもないと思う。
人間は時として「プレゼントを誰かに贈りたい」という欲望をもつ。
それはつぶさに分解すれば、「プレゼントを用意する時間がワクワクする」とか「いい気分転換になる」とか、「普段の自分だったら気を留めないものに注目して、新しい世界を発見するいい機会になる」とか、はたまた「プレゼントを贈るさまを周りに見せつけることで"良い人"だと思われたい」とか、色々な理由が想定しうるが、ともあれ「プレゼントを誰かに贈りたい」という欲望をもつことがある。
だから、その欲望を満たすために、ちょうどよい相手と機会があれば、それを利用してプレゼントを贈る。「利用」というと聞こえが悪いが、人は誰しも「プレゼントを貰いたい」という欲を大小あれど持っている。さらに贈った物が相手の気に入るものだったら、言うまでもなく Win-Win であろう。(もちろん、時として贈った物が相手の好みから外れていることもある。それは結果的には、「贈りたい欲」のほうだけを一方的に満たしたこと(自己満足)になってしまうが、そもそも人と人とのコミュニケーションはいつも上手くいくとは限らないのだから、仕方ない話だろう。)
人間は大小さまざまな欲望をもっており、それらを散発的に行動に移して、欲望を満たす。運良く「働きかけた側」と「働きかけられた側」の欲望が、いい具合に合致すれば「良いコミュニケーション」となる。
「プレゼントを贈る」というのは、それ自体が多少なりとも「目的」であり、「贈りたい欲」を満たす行為である。わたしにはそう思える。
人間は時として「プレゼントを贈りたいという欲」を抱くことがあり、その欲望を満たすために(異性に)プレゼントを贈る。それはある種の下心がある行為(自分の欲望を解消するための行為)には違いないが、その下心を狭い意味での「恋愛欲・性欲」につなげて考える意味がわたしにはよく分からない。
そういう一面的で狭い物の見方は、男性にとっても、女性にとっても不幸な考え方であると思えてならない。
【蛇足】
令和の世は、コンプラ意識の高まりによって「男女の友情」が成立しにくくなっていると感じる。小学生のとき、男子は女子に話しかけづらく、女子は男子に話しかけづらい雰囲気があったと思うが、コンプラ意識の高まりによって、この壁が大人になっても維持されやすくなっている。これからの時代、こちらのほうがよほど問題ではないか。
「コンプラの壁」+「後天的に再生産される恋愛観」のコンボによって、男女の友情がより成立しづらくなっていく、というシナリオが考えられる。
つまり「男性はふつう女性に話しかけない。もし壁を飛び越えてでも話しかけたなら、それは気があるから。」という考え方が広まりやしないか、という危惧だ。
「無関心か、恋愛感情か」という極端な見方(小学校的な男女観)が優勢になると、男女の友情はますます成立しづらくなるだろう。もしそうなった場合、主原因はもちろん「性欲」などではない。「社会的な目」だ。
「男女の友情は成立しない」→「男性が女性に(女性が男性に)話しかけるときは常に狙っている」という見方が優勢になりすぎると、ますます男女の友情は成立しづらくなる。つまり「男女の友情は成立しない」という言説が、より男女の友情は成立しない社会を再生産しているという一面もあるのだ。
そんな社会は果たして幸せだろうか? わたしには不自由で窮屈な社会に思えて仕方がない。