メディアの話。戦艦大和が宇宙戦艦ヤマトになったわけ。
終戦記念日でいくつかの文章を読んでいるうちに、「なぜ戦艦大和は、『かっこいい』存在として、戦後語り継がれたのか」という疑問が湧いてきた。
すでによく知られているように、第一次世界大戦後に構想された巨大戦艦=大和の概念は、大艦巨砲主義は、航空機の発達によって、太平洋戦争勃発前までに、「時代遅れ」になっていた。
何より、日本軍の航空機による1941年12月8日の真珠湾奇襲が成功しているのだ。
つまり、日本自らが、戦争のパラダイムシフトを象徴している。
真珠湾に停泊していた米国の戦艦8隻のうち4隻を撃沈し、3隻を大破させた。
日本海軍の航空部隊は、2日後にマレー沖でイギリス艦隊へも打撃を与える。
「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈したのだ。
大和自体は、ほぼ同時期1941年12月に竣工している。
映画でもよく登場する、1942年6月のミッドウェー海戦が初陣。
2回目の出陣は1944年のマリアナ沖海戦。
3回目の1944年のフィリピン沖海戦。
ただし、すでに航空機による戦闘が中心になっているため、たいして活躍していない。
「比島沖海戦中、サマール島沖で米護衛空母部隊と交戦した際に敵艦に対して砲撃が行われ、この時が、大和が敵艦に向けてその主砲を放った最初で最後」だったとのこと。
デジタル一気に突入した時代のアナログ機器と同じで、アナログの最高峰が、全く役立たずになるという状況、それが大和だったわけだ。
そして4回目の出陣、1945年4月7日沖縄沖で、大和は米軍機の攻撃からわずか2時間で沈没している。
そんな大和は、戦後、なぜかヒーローとなる。
1964年生まれの私が幼少期から見た様々な子供向けの本などに、大和はしばしば「史上最強のかっこいい戦艦」として登場し、その名前を知っていた。
極め付けは、そう、「宇宙戦艦ヤマト」である。
「時代遅れの産物」だった大和が、敗戦後ヒーローとなるナラティブを、日本人は、作った。
物心ついた時はそのナラティブを吸い込んでいた。
だから、理由が私にはわからない。
なぜだ?
調べてみた。
こちらの一之瀬俊也氏のコラムによれば、
そもそも戦前は、極秘兵器だったから、知られてなかった。つまり「大和の存在とナラティブ」は戦後のある時期に作られたものと記されている。
「戦争中、戦艦大和の存在は極秘であったから、国民の大部分は大和について知ることはなかった。大和の存在は、戦後に刊行された雑誌などに旧海軍関係者が書いた文章を通じて、少しずつ知られていく。
興味深いことに、大和は当初、けっして現在のような賛美の対象ではなかった。例えば戦後も続いた海軍雑誌の『海と空』は大和とその性能について詳しく紹介し、その一八インチ主砲は結局何の戦果も挙げえなかったと述べ、「如何に造船技術は我が国の最高水準を本艦によつて誇示した処で、就役後その指揮官の巧拙、乗員訓練の良否、搭載公器の精度等が重大な関係をもつて艦の運命を左右するものである」(一九五六年一一月、「日本戦艦号」)と、辛辣だがごもっともとしか言いようのない批判をしている」
なるほど、当初は海軍関係者も、「大和は時代遅れだった」とはっきり記していたわけだ。
さらにこの一之瀬コラムを受けて北海道大学のMooam HYUN教授が1950年代の大和神格化のプロセスを論文に記している。
https://www.bcjjl.org/upload/pdf/bcjjlls-10-1-91.pdf
「戦争を通じて大和は戦果らしい戦果をあげていない。戦後、旧海軍の無能を象徴する 大和が現在のように賛美の対象となったことについて、その悲劇的な最期が意図的に改 変されたうえ、今日に至るまで神話化されていることを歴史学者の一ノ瀬俊也は指摘する。
大和が、その戦死者たちに敬意が示されることで神話化されるきっかけとなった のが、1952年に刊行された、大和に乗り込んだ学徒兵として奇跡的に生還した吉田満の 小説戦艦大和ノ最期である。
翌年には同著を原作とする映画戦艦大和が公開され た。以降、「戦艦大和」の物語は大衆文化をとおして、戦後日本人がその時々の欲望を満 たし立場を守るため消費されていく1。
「戦艦大和」の物語は1960·70年代をとおして、男の子文化のなかで引き継がれてい く。1960年代は大日本帝国の光栄を懐古する戦記マンガ·児童向けの大和の図鑑が出版 された。高度成長のまっただなかにある日本で、大和をつくった技術立国としての繁栄 を象徴する記憶として物語が消費されたのである。そして1974年に宇宙戦艦ヤマトの テレビ放映が開始され、続く劇場版アニメの上映は大和ブームを巻き起こした。1980年 代には大和の水中探査が行われ、大和が活躍する仮想戦記物が流行した。1990年代以 後、バブル経済が崩壊し米国への追従がいっそう強まった日本で、「世界最強」を誇る大 和は日本人の自尊心を満たすため召喚された」
1950年代、旧海軍関係者は「大和は時代遅れの産物だった」と分析しているのに対し、大和乗組員だった吉田満氏の小説「戦艦大和ノ最期」が、悲劇の戦艦大和のナラティブを開陳し、日本人は、事実以上に、小説の、そして映画化作品のナラティブを選んだ。
映画「戦艦大和は1953年に興行収入1億3601万円を叩き出し、その年の邦画の7位だ。8位が小津安二郎の「東京物語」。洋画2位「シェーン」が1億8000万円だから、大ヒットだったことがよくわかる。
そして。
1960年代には、大和は漫画でプラモデ少年たちの心を鷲掴みにする。
こちらのコラムが興味深い。
1964年。私の生まれた年の「少年画報」に「新戦艦大和」という漫画連載がスタートしている。
原作は梶原一騎。作画は団哲也。
Wikipediaに情報がある。
『新戦艦大和』
ーー艦長の沖田武夫とその息子2人が新戦艦大和でキラー博士と戦うという物語。
アニメ『宇宙戦艦ヤマト』の10年以上前に「戦艦大和が空を飛ぶ」アイデアを出した先駆的作品である。新戦艦大和は、デルタ翼で飛行し、潜水も可能となっている。
なんと宇宙戦艦ヤマトより先に、新幹線が開通した年、大和は空を飛んでいたのだ。
Wikipediaによればこんな続きが。
梶原一騎側は『宇宙戦艦ヤマト』を『新戦艦大和』の模倣だとみなしていた。「『宇宙戦艦ヤマト』の中心スタッフで漫画版を描いた松本零士を脅した」、「梶原一騎周辺が息巻いた」などと言われていたが、松本零士本人によると、梶原一騎側からはこの件について特に何も言わなかったという。松本は戦艦が空を飛ぶというアイデア自体、第二次世界大戦前から海野十三の小説を初めとして、昔から存在していると説明している。梶原のものも、戦前に人気を博した少年小作家・平田晋策の『新戦艦高千穂』がヒントとなったと指摘されている。 (ウィキペディアより)
戦艦が空を飛ぶアイデアは宇宙戦艦ヤマト以前からあった。
1968年の「マイティジャック」も空飛ぶ戦艦である。東宝・円谷プロは、戦艦を飛ばしていた。
当時の戦記漫画の人気ぶりは、神立尚紀氏のコラムが詳しい。
ではプラモデルは?
こちらのコラムによれば、1960年に発売されたNBK製「戦艦大和」が最初らしい。
整理するとこうなる。
1945年に撃沈された戦艦大和は、軍の機密事項であり、一般の人は知らなかった。
戦後旧日本軍関係者も、航空機時代において、巨艦大和は時代遅れの産物だった、という認識だった。
それが、
1952年の小説「戦艦大和ノ最期」の大ヒット、さらにその映画作品である「戦艦大和」の大ヒットにより、日本人の多くは、リアルな大和ではなく、物語の、映画の大和のみを消費し、ナラティブを醸成していく。
1960年代以降は、漫画とプラモが大和のナラティブを子供たちに伝え、1970年代には宇宙戦艦ヤマトのメガヒットにより、大和はサブカルチャーのアイコンとなる。
つまり、今流通している「戦艦大和」は、現実のものではなく、最初から「フィクションのナラティブ」、物語だった、ということである。
戦艦大和と宇宙戦艦ヤマトが一直線で繋がるのは、むしろ、戦後消費された大和がフィクションだったから、ということがあったのかもしれない。
勉強になった。
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