国道16号線と川越とスナックのない街。

 午前9時過ぎの川越にいる。

 平日の朝にもかかわらず、すでに観光客がたくさんいる。年齢も性別もいい意味でバラバラ。外国人の姿も多い。

 ここ数年、すっかりメジャーになった「小江戸」地区。電柱を全てなくし、戦前のクラシックな建物や、古い蔵がたくさん残っている。

 老舗の喫茶店やお米屋さんに混じって、地ビールを飲ませる店が朝から賑わっている。

 古い銀行の建物の横にある、70年代風の喫茶店に入った。

 川越。面白いじゃないか。

 ということで、今度は夜の川越を歩いてみた。

 今回一緒に歩くのは、私のスナック仲間、編集者のTさんとプロデューサーのIさんである。東京近郊のスナックばかりを、アポなし突撃取材風に、数年間に渡って、3人で飲み歩いてきた。

 ところが、である。

 なんと川越にはスナックが全く見当たらない。全く、ない。

 そもそも、夜が早い。

 先日訪れた、「小江戸」の呼び名も高い、旧市街の店のほとんどは、バーも含め、午後7時で閉店。

 私たちは、あかりの消えた「小江戸」の路地に呆然と立ち尽くすのであった。

 拾ったタクシーの運転手さんに聞くと、近所の鰻屋さんならやっているという。よし、鰻にしよう。川越は、眼下に荒川と入間川が合流する、まさに「川を越える」ロケーションにある。川魚料理は古くからの名物だ。

 創業天保3年(1832年)の「いちのや」。

「ここ、渋谷の山手通り沿いにある『いちのや』の本店ですね」

 Tさんが言う。ほんとだ。渋谷の「いちのや」の鰻は、あのエリアでは一番との評判で、私も何度か食べたことがある。

 川魚が名物の町なのだから、と、ナマズとドジョウの天ぷらをツマミにビールを呑み、かば焼きをいただく。

 美味しい! が、グルメレポートが目的ではないので、鰻の話は割愛して、店を出てスナックを探す。

 西武線の本川越駅まで10分、川越駅まで20分弱ほどの距離だ。

 「小江戸」エリアと異なり、2つの駅をつなぐサンロード商店街は、遅くまで賑わっている、とタクシーの運転手さんに聞いた。数百メートルもある、長い商店街だ。しかも駅前。裏手には必ずやスナックがある。ベテラン・スナッカーである3人は、のんびり構えて、商店街を歩いた。

 5分歩いた。10分歩いた。

 ない。
 なんと1軒もない。スナックが、ない。

 代わりに、大手のチェーン居酒屋さんやスニーカーショップなどが、軒を連ねている。地方都市の商店街に有りがちな、「シャッター焦点」が全くない。平日の午後8時過ぎ。たくさんの人で賑わっているのだ。その大半は、10代の高校生。20代の大学生、そしてやはり20代の社会人。中国や韓国からの若い観光客も混ざる。中には、浴衣を着ている韓国人カップルも見かける。おそらく「小江戸」を昼間に観光し、夜になって、駅前の繁華街に移動してきたのだろう。

 なんだか、原宿の竹下通りに紛れ込んだようである。

 川越周辺は、大学が多い。川越駅にもたくさんの大学の広告が掲げられている。川越のメインストリートは、完全に「若者」にターゲットを合わせているようだ。

 東京の郊外は寂れゆく一方だ、という論調のニュースがマスメディアには流れてくる。けれども、国道16号線に面した川越に関していえば、全く違う。昼間は「小江戸」にたくさんの観光客が押し寄せ、夜は商店街を地元の若者が闊歩する。シャッター商店街と無縁の街。実にめでたいことである。

 が、スナックは、どこに行ったのだ。

「お兄さん、いい娘、いますよ!」

 川越駅の西口まで延々2キロ近く歩いて、へとへとになった我々の前に、優しく声をかけてくれたのは、風俗店の呼び込みのお兄さんだった。

「うちら、そっちの方は間に合ってるんだけど、この辺り、スナック、ないかな?」

 Iさんがすかさず返す。さすがだ。街の情報は、街に聞け、である。

「ス、スナック、っすか?」 

 思わぬ返し技にあっけにとられたお兄さんは、親切にも教えてくれた。

「駅前のこの辺りは、ないっすねえ。ちょっと歩くんですが、駅からかなり離れたコンビニの近くに何軒かあったかなあ」

 というわけで我々は、呼び込みの兄ちゃんの教えてくれた方向へ、歩みを進めた。

 あった。

 3階建ての建物に、5軒ほどのスナックの看板が出ている。

「いらっしゃい、あら、ご新規さんね。え、東京からわざわざ来たの? 物好きねえ」

 は、はい。物好きです。

 スナックのいいところは、「地元の生の空気」をママや常連客から直接聞くことができることである。

 なぜ、これだけ栄えている川越にスナックが少ないのか?

「駅前のサンロードの方はね、昔はスナックなんかもあったのよ。でも、バブルの後に一度寂れちゃって、シャッター商店街っぽくなったの。で、あの通り沿いに地元のデパートあるでしょ?」

 丸広百貨店。埼玉の地場のデパートで、本店は川越のまさにサンロード沿いにある。実にユニークな店で、1960年代に、駅前にあった店を移転して、代わりにバックヤードに広大な駐車場を用意した。「そごう」が60年代後半から国道16号線沿いで展開した「郊外型百貨店」の走りなのだ。

「そうそう、丸広。丸広が紀伊国屋書店とか山野楽器とかを店子で入れたのよ」

 たしかに先ほどのサンロード沿いに紀伊国屋と山野があった。

「それから、だんだん新しいお店が入るようになってね、ここ数年は、小江戸観光でお客さんも多い。スナックは出番ないわ」

 ここに、なぜスナックが集まってるんですか?

「30年前、私がママを始めたころは、この辺り、スナックだらけだったのよ」  

 え、そうなんですか?

「うん、スナックだらけ。ちょうどバブルの頃でね。そりゃ儲かったわ。ちょっと田舎だから、東京でバブルが終わってからもしばらくは景気よかったわね。毎日お店は満員で、週末なんかはお客さん、お断りしていたり」

 なんと。

「一方で、まだのんびりしてて、向かいの土地はみーんな畑だったの。夏は枝豆作ってたわね。で、その枝豆、お客さんが抜いてきて、ママ、茹でて! 地元の農家さんも常連さんだったから、オッケーだったの」

 牧歌的ですねえ。

「うん。でも、もう数軒になっちゃった。看板だけ残ってて、やめてる店もあるわ」

 国道16号線沿いの街の中では、最も歴史のある川越。

 スナックのある建物と駅の間には、2020年の東京オリンピックを目標に、東武ホテルをテナントにした大型複合施設が建設中だった(2018年の話、である)。

 スナックが消えゆく街、川越は、国道16号線沿いの街の中でもダントツに歴史があり、由緒も正しい。今も若い人たちが集い、駅の乗降客数も伸びている。

 結果として、街の新陳代謝が進み、街を彩る店の顔ぶれは変わって行く。

 おじさんの止まり木、スナックが減り、格安の居酒屋チェーンが増える。洒落たブルワリーや、創作料理やエスニックレストランなども。江戸時代からの伝統と名声を背負った老舗鰻屋が、一方で今も行列を作る。 

 旧石器。縄文。弥生。古墳。

 川越には全ての遺跡がある。

 つまり3万年単位の歴史がここにはある。国道16号線沿いに、人類が最初に足跡を残してから、大和朝廷の時代、奈良、平安、鎌倉時代とずっと武蔵国の大都市であり続けたわけだ。

 1457年、太田道灌が江戸城を東京湾の海っぺりに築城したとき、同時に道灌が築城したのが川越城だった。

 このときの江戸城の周辺は、幾つもの川が流れ込む、人が住まうのにはあまり適さない河口の湿原だった。その当時は、川越の方が、比較にならないほど、立派な街だったわけである。今、川越を「小江戸」と呼ぶが、当初はむしろ江戸が「大川越」だ、とも言える。

 国道16号線沿いの都、川越の軍事面、経済面での重要性は、その後の武将たちも認識していた。太田道灌亡き後、主君の扇ケ谷上杉氏を追い落とした北条早雲の息子、氏綱は、1524年に江戸城を、1537年に川越城を奪い、後北条の関東支配の拠点とする。

 その後北条を滅ぼした豊臣秀吉から、関東へ体良く左遷された家康は、天下を取ったのちも、京都や大阪には居を移さなかった。

 江戸城を拠点とし、大掛かりな河川改修を行った。利根川を東京湾から霞ヶ浦に付け替えることで江戸の水害を食い止め、同時に水路を縦横無尽に張り巡らし、利根川の新しい河口である鹿島に、東北からの船の物資が、房総半島を回らずとも、内水面の水運で、速く、安全に、江戸城まで届く物流ハードを構築した。

 そして川越城には、徳川の親戚である松平家が入る。城下町が整備され、今で言うところの「小江戸」と呼ばれる街並みは、江戸の時代に整備された。

 日を改めて、川越城を歩いてみた。

 「小江戸」の街から東に数百メートル。

 新河岸川に面した台地の縁の高台に、川越城はある。川は城をぐるりと取り囲むように流れる。新河岸川の先には、入間川と荒川が流れる。川越の街と城のある台地と川の流れる低地とは十数メートルの高低差があり、川沿いには今も田んぼが広がっている。入間川と荒川はすぐ先で合流し、新河岸川はさらにその先で合流する。

 江戸時代、家康から始まって4代家綱の時に完成したこの川筋は、川越城と江戸城とをつなぐ「船の高速道路」だった。

 太田道灌の時代も、流路は今と異なるものの、川越から江戸城までは、川で繋がっていた。道灌が江戸城を拠点としたのは、川という高速道路で川越という重要拠点と結ぶことができる場所、かつ海に面して海路も活用できる場所、だったからではないだろうか。

 つまり道灌は、川と海の水路を利用した人と物の流通を制することが、国を制することだ、と認識していたからこそ、江戸城の場所を決めたのではなかろうか。

 江戸は、鎌倉とも海路でつなぐことができる。現在の横浜・金沢の六浦湾はかつて鎌倉の外港だった。ここに船をつけ、荷揚げして、目の前の朝比奈峠を越えれば、道灌の主である扇ケ谷上杉家の拠点の鎌倉である。陸路を通らず、安心して江戸と鎌倉は行き来できる。もちろん川を使えば、川越へも到達でき得る。

 頼朝が挙兵した際、三浦半島を牛耳る水軍の使い手三浦氏を引き入れ、その後、鎌倉の東京湾側の玄関として六浦を活用したのと同様、太田道灌もまた鎌倉の港、六浦を活用し、江戸城、川越城と、水利で結ぶことが可能な地を拠点とした。その可能性は結構あるのではないか。実際、六浦には、道灌ゆかりの伝説がある。

 などと、妄想にふけりながら、川越城を見学する。

 平城で大きな木造屋敷、といった風情。ちょっと見には「城」には見えない。

川越城の裏手には、高校のグラウンドが広がり、高校球児の声と金属バットでボールを叩く音がする。

 畳敷きの部屋に上がり、そこにあった解説を読む。

 江戸時代、川越城のある川越藩は、三浦半島の先っぽと関係があったのだ。

 川越藩は、三浦半島の一帯、三浦郡に1万5000石もの領地を持っていた。おお別荘みたいだ!と喜べる話じゃない。幕府から、「三浦に土地をやるから、代わりにおんなじ分の川越の土地をよこしなさい」と、ちっとも嬉しくない配置換えをされた上、いざという時の沿岸警備を命じられたという。1820年のことだ。19世紀に入ってから、英米の外国船が日本近海をウロウロし始めた。幕府としても対応が迫られたわけで、川越藩にはあまり嬉しくないお鉢が回ってきたわけである。

 ちなみに三浦半島の向こう岸、房総半島の警備は、やはり国道16号線からほど近い埼玉県行田市にあった忍藩が受け持つことになった。

 そして、1853年、奴が来る。三浦半島の付け根、浦賀に来る。

「開国しませんかあ」の人、アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーである。

 『埼玉の歴史』(小野文雄 山川出版社)によれば、「嘉永三年(1853)アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが来航すると、川越・忍の両藩とも急遽国元から藩士や人馬を動員し」たという。

 藩士、人馬を、それぞれ三浦半島浦賀と反対岸の房総半島にどうやって配置したか。川越、忍、それぞれの藩から、現在の国道16号線に当たるルートを通った可能性が高いのではないだろうか。

 このとき両藩の人馬の動きを想像すると、武蔵国から三浦半島と房総半島にそれぞれぐるっと移動するわけで、国道16号線的な人と馬と物の動きが、すでに確立していた、と思われる。

 国道16号線は、明治維新以降、軍事道路として発展するが、幕末の時点で近代的な軍事防衛の補給ラインとなりつつあった。その要が川越藩だった、というのは実に興味深い。

 1400年代半ばに川越城を築城した太田道灌は、浦賀とほど近い鎌倉が主君の本拠地であった。そして、鎌倉の外港である六浦を利用していた可能性がある。ちょうど400年後、道灌とおそらくは似たルートで、川越から浦賀へと兵を配備した川越藩。

 歴史の偶然だろうか。

 違う。地形の必然である。

 江戸=東京=関東の地に、海から入ろうとすれば、必然的に黒潮のぶつかる三浦半島の内側、房総半島の内側に上陸することになる。他にルートはない。もしかすると縄文の昔から、つまり過去数千年に渡って、海伝いに外からやってきた人は、船を漕いで、この三浦半島や房総半島に着岸し、内陸へと歩を進めた。弥生時代も、古墳時代も、平安時代も。

 その証拠が、源頼朝が1180年に挙兵をした時のルートだ。

 伊豆半島の蛭ヶ小島で、地元の弱小豪族、北条氏のバックアップで挙兵した頼朝は、小田原の石橋山であっさり平氏に敗れると、目と鼻の先の真鶴半島近辺の浜から、海上ルートで房総半島へ船で向かう。三浦半島の目の前を通り過ぎるとき、衣笠城を兵士に奪われた三浦軍の船が合流し、そのまま房総半島の鋸南に着く。鋸山がそびえる麓。現在、久里浜行きのフェリーが発着する金谷の数キロ南である。

 頼朝は三浦氏の軍を伴い、内房をそのまま駆け上がる。

 国道16号線の内房沿いの街には、当時の頼朝伝説が残っている。頼朝は、馬を駆って、今日日の暴走族より相対時間でははるかに速く速度オーバーの勢いで、千葉を抜け、その間に、現在の市原市にある国府を通り、上総氏と千葉氏を味方につけ、旧利根川や荒川、入間川が流れ込む、河口を渡り(どうやって渡ったのだろう。橋はないはずだ。船を使ったのか)。武蔵国に入った。その後のルートは調べてみたけれど、今ひとつわからない。早稲田の面影橋近辺に鎌倉街道の古道があり、甘泉園という庭園がある。この辺りで、鎌倉へと向かう頼朝軍の馬揃えをしたという伝説がある。

 新目白通りを隔てて反対側の高田には、太田道灌の有名な逸話「山吹の里」の伝説がある。すぐ近くにはその伝説から名をとった「山吹町」もある。

 頼朝の話も、道灌の話も、のちに作られたおとぎ話かもしれないが、鎌倉街道がこの地を走り、御家人たちが延々鎌倉を目指した、というのは事実である。

 頼朝は何らかのルートを通って、片田舎の江戸の地を抜け、海沿いならば、神奈川、横須賀、六浦から鎌倉に入ったのだろう。この辺りも、江戸から鎌倉へ、頼朝がどうやって戻ったのか、調べがついていない。この連載としては、上記の通り、国道16号線ルートをブイブイ言わせながら、凱旋した、となると都合がいいのだが、歴史を都合でずらすのはナシである。ご存知の方がいらしたら、ぜひご教示いただきたい。

 

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