メディアの話 東京とそれ以外と。
正月、浜松の実家に戻って、高校の同窓会に出た。
還暦であるからして、40年ぶりに会った連中もいた。
久しぶりに地元の話をしながら、感じたことがある。
日本は、「東京的都市」と「それ以外」でできている。
おそらく、アメリカやアジア、中国などでも同じではないか。
つまり、ホワイトカラーとインターネットと鉄道と投機的不動産とバカ高い食い物屋でできている首都の街と、自動車で移動する150人のリアルな村がぶどうのふさのよう並んでいる「それ以外」の街とで、世界はできている。
人口の絶対数で見ると、東京的街よりも、「それ以外」の方がはるかに大きい。
「それ以外」の街では、東京的街よりもホワイトカラーが少ない。
添付した令和2年2020年のデータを見れば一目瞭然、である。
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東京だけが突出してホワイトカラーが多い。過半数である。
そんなホワイトカラーの真ん中にいるのが、全国津々浦々まで情報を流し、命令し、経営し、国を動かしている、政府、官僚、大企業、マスメディア、ネットメディア、大学の方々である。
この人たちは、ほとんど「東京」の事情だけで、日本を語る。
この人たちにとって、東京=日本、である。
「それ以外」の街では全く役に立たない既存タクシーの運転手雇用政策に過ぎない「日本版ライドシェア」の話なんかも東京のタクシー会社の思惑だけである。
昔から日本中にあってすでに寂れている地方の私鉄と何も変わらないLRTがあたかも新しい駅前町おこしになるはず!なんてコンパクトシティ幻想なんかも「それ以外」の地元の人たちは冷めて見ている。盛り上がっているのは、他人事の東京の人間だけだったりする。
東京的街に住む人たちは東京から出ない。
たまに出ても、一過性だから「それ以外」の事情を一切見ない。
「それ以外」を訪れても、用意されたハイヤーやタクシーやお迎えの車で動くだけだから、何も見ない。現場にも行かない。
だから「それ以外」の街に対して、想像力も働かないし、データも取らないし、取材もしない。
東京に暮らすだけで、疲弊しているからである。
政府も企業もメディアも、である。
日産自動車がダメになった。
理由の一つは、日本唯一の「東京横浜」という東京的街の都会企業だったからじゃないの、というのが私見である。
他の自動車メーカーは、「それ以外」の街が、本社であり、出自である。
トヨタ自動車、マツダ、スズキは、それぞれ、愛知県豊田、広島、浜松である。
ホンダも元々浜松で、研究所と工場は狭山に栃木である。
全部自動車で暮らす街、である。
東京的街の特徴は、後で述べるけど、日本で唯一の「鉄道社会」である。
東京的街に暮らす多くの人にとって、自家用車は必需品じゃない。
だから世帯あたりの自家用車保有台数は47都道府県中最下位である。
どこが? もちろん東京都である。
一方、「それ以外」のあらゆる日本で、自動車はほとんどの人にとって必需品であり、ライフラインである。
ないと死ぬ。
生活も、仕事も、できないからである。
そんな「それ以外」の街で日々暮らしながら自動車を設計し自動車をマーケティングし自動車を売るのと、自家用車がなくても暮らしていける街で暮らしながら自動車を設計し自動車をマーケティングし自動車を売るのと、どちらが市場に合う車ができるか?
答えるまでもない。
かつて、洒落たセダンとスポーツカーが売り物だったホンダは、日本で一番売れている軽自動車NーBOXと、2024年のカーオブザイヤーを受賞した5ナンバーの乗用車フリードが稼ぎ頭である。
フェルディナントヤマグチさんの開発者インタビューが詳しい。
「それ以外」の街、自動車社会の日本に必須の、取り回しが良くて燃費が良くて荷物が詰めて五人乗れる車。そう。日々の実用車をちゃんと提供すること。これが自動車メーカーの使命である。
ホンダはそんな車を提供している。
そうやって自動車社会の街に対応している。
東京にいると、N-BOXとフリードの価値が見えなくなる。
その証拠に、オールドメディアの自動車雑誌は、いつまで経ってもスーパーカーを並べているだけである。1970年代のスーパーカー少年の脳みそから1ミリも進化していない。自動車実用の世界からすると全く意味がない媒体である。
かくして自動車雑誌はどんどん減っていった。自家用車保有台数が2000万台に過ぎなかった1980年台、自動車雑誌は数十万部売れる媒体が複数あった。その時の三倍の6000万台以上が売れている今、多くの自動車雑誌が姿を消した。市場が三倍になったのに、である。理由はいっぱいあるけど、自動車ユーザーのニーズを満たす情報発信ができなかった、というのはまず間違いない。
自動車作りは消費地でないとわからないことがおそらくいっぱいある。
ホワイトカラー的ではないブルーカラーの自営業の、鉄道じゃなくって自分の足=自動車で生活する社会。
そんな自動車社会に暮らしながら作らないと、みんなが必要な自動車ができない。
自動車だけじゃないだろう。
色々なものが、「それ以外」の街からじゃないと作れないのではないか。
ところが、日本の大企業の多くは東京に本社がある。
メディアも、官僚も、政府も、私を含む大学人も、東京に集約されている。
そんな東京的街の住人の思考法と、それ以外の街で暮らす大半の人たちの思考法と生活実態には、想像以上に「溝」がある。
連想するのがアメリカだ。
アメリカの、民主党と共和党の「分断」も、根っこには、「都会」と「それ以外」、ホワイトカラーとそれ以外、の分断が潜んでいるように見える。
どっちがいい、って話じゃ、もちろんない。
ないのだが、溝は、おそらくある。
最近読んだノンフィクション『対馬の海に沈む』は、まさに「それ以外」の世界のリアル、が描かれている。
東京的街の住人が読むと、恐怖を感じるはずだ。
現実であるが故に、どんなホラーより怖いと。
でも、「それ以外」の街の人が読むとどう思うだろうか。
興味がある。
東京的街は、ホワイトカラーでできている。人だけの組織と情報だけできている。
だから、可能にメディアが発達し、過剰にネットを浪費する。
情報、命、だからである。
今いらなくなるものがある。
東京的ホワイトカラー。
冨山和彦さんの「ホワイトカラー消滅」を参照するまでもなく。
https://www.amazon.co.jp/dp/4140887281/
大学の教員も、例外ではない。そんなホワイトカラーの一員だから。
誰が、ホワイトカラーを不要にするのか。
ホワイトカラー空間から生まれた人工知能である。
まさに父が子に殺される。ホワイトカラー人間はホワイトカラーA Iに取って代わられる。
「それ以外」の街はどうなるだろう。
世界は、「お金」というグローバルスタンダードの価値で売り買いされる。
日本の、それ以外の街には、非ホワイトカラー的な価値がごまんとある。
ところが、これまで、日本の東京的ホワイトカラーは、そんな「それ以外の街」の価値を見つけ、値付けすることができなかった。
東京的ホワイトカラーは、総じてサラリーマンだから、である。
サラリーマンに価値などつけられない。
自分がサラリーマンだから、当事者としてわかる。
かくして、日本の中の「それ以外」の価値は、自然も人も風土もご飯も含めて、日本のものじゃなくなるかもしれない。
お金的な意味で。
インバウンドが隆盛というのは、その予兆というわけである。
ちなみに、インターネットについては、東京の人がそれ「以外」の人よりはるかにアクセスしている。
「それ以外」の人の方が、ネットがあると東京との差が埋められるんじゃない?
そう思うかもしれない。
が、違う。
理由ははっきりしている。
東京には「情報」ばかりがある。
ホワイトカラーにとって情報だけが頼りだからだ。
かつて「情報」は、マスメディアを通じてしか接することができなかった。
あとは生でアクセスするしかない。つまり情報都市東京に来るしかない。
すると、東京とそれ以外では格差が生じる。
情報格差である。
だからそれI「以外の人」はまだ見ぬ東京という情報を求めて東京にやってきた。
上京というのは、東京的情報にアクセスする、ということでもあった。
ところが、今や、情報はインターネットでいくらでも手に入る。
結果、「東京」という情報に対する、それ以外からの渇望感は相対的に減っていった。
いつでもどこでもアクセスできるとなると、情報が欲しいのではなく情報に対する渇望感を埋めたかっただけの人たちは、東京に憧れることもなくなるし、東京に行く必要もなくなる。
ところが、東京的都市の住人たちは、いまだに、東京の「情報」が「それ以外」の人たちに対して価値がある、優位なものである、と勘違いしている。
ところで、この「東京的都市」とは、どの程度の規模で、その住人とは何人くらいだろうか?
Wikipediaなどに出てくる、首都圏はじめとする5大都市圏の人口は、日本の6割程度で、首都圏には3800万人が暮らしており、札幌、京阪神、名古屋、福岡に合計4000万人程度、合わせて7000万人が都市住民なのだ、と規定している。マスメディアやコンサルまでこの数字を結構使う。
日本は、東京的な大都市住民ばかりなのか?
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そんなわけはない。
この定義、「人々の暮らし方、生き方、意識のあり方」を探る際に、東京的都市とそれ以外の街とを見分ける上では、はっきりいって全く使い物にならないものである。
この定義で都市を規定するととんでもなく勘違いする。
勘違いするので、多くのコンサルがトンチキな地方開発をして大失敗する。
東京的都市は、ものすごく狭い。7000万人? 6割?
冗談じゃない。
東京23区と中央線の一部。東京横浜間の私鉄沿線および横浜の中心。
以上である。
せいぜい2000万人弱。実際はもっと少ない。日本の15%強である。
この東京的都市住民は2000万人、とは、どういう定義か。
まず、東京的都市とは、官公庁、メディア、大企業の本社機能が集約した場所のことである。
1980年代まで、大阪に本社を置く大企業は少なくなかった。かつての松下電器も大手商社の大半も、大阪が本社だった。
そのほとんどが本社を東京に移した。
明治維新からこっち、天皇も東京在住である。京都ではない。
国の機関も政府も、ぜーんぶ東京である。マスメディアも、である。
この東京的都市、とは、街としていけてるか、歴史があるか、ということを問うているのではない。政治経済メディアの中枢か否か。それだけである。
この定義を起用した瞬間、京阪神も名古屋も札幌も福岡も「東京的都市」の定義からは外れる。・
もう一つの定義は、鉄道だけでどこでも自由に行ける街か否か。
つまり「完璧な鉄道社会」か否か。
東京エリアだと、3700万人という東京・千葉・埼玉・神奈川の人口のうち、この定義に合うのは国道16号線より大幅に内側のエリアに限定される。それが23区プラスアルファの2000万人というわけである。あとは京阪の中心部しかない。
そして京阪は、最初の定義に当てはまらないから、東京的都市は、2000万人程度なのである。
東京的都市以外では、「大都市」であっても、自動車を併用した生活をしている。
東京的都市の2000万人の中でも半分近く、おそらく1000万人弱は、鉄道で都心に通勤しながらも、生活や遊びでは自動車を併用しているケースが少なくないはずである。さらに、国道16号に接した辺りでは、通勤はともかく、生活や遊びでは自動車の方がメインの交通手段になっている。それぞれの自治体のデータでもはっきり出ている。
これが、東京以外の大都市に行くと、自動車の利用比率ははるかに上がる。名古屋や札幌、福岡などは、他の小規模地方都市並みに自動車を併用した生活をしている。
では、これまで言われていた、日本は都市化が進んでいる、東京化が進んでいる、というのはウソなのか?
半分ほんとで半分ウソである。
言葉の定義の問題である。
それぞれのエリアの鉄道に人口が集積する、という傾向を都市化と定義するならば、過去60年の間に全国を網羅した鉄道と、さらに地方の都市開発がセットになり、「都市化」が進んだ、東京化が進んだ、ということになる。
でも、実際にそれぞれの「それ以外の街」に暮らしていたり、私のように実家があって時々帰るひとならば、知っているはずである。
これは、東京的都市ではない、と。
人口77万人、日本で15番目に大きな政令指定都市の浜松に実家がある私は、常にそう思っている。浜松が、東京的都市ではない、とするならば、日本の大半がそうではない、と言い切れてしまう。
このコラムで私が規定したような厳密な東京的都市は2000万人、と想定すると、過去60年の間に起きた日本の国土利用と暮らしの変化は(東京的)都市化ではない。「それ以外」化が進んでいるのだ。
東京ではない。さりとて、かつての「田舎」でもない。
結論から言うと、日本においては都市化、東京化が進んでいるのではない。あえて言うならば、地方大都市の国道16号線化、「それ以外」化が進んでいるのだ。
全国が国道16号線的な空間になっているのだ。
なくなったのは「田舎」である。でも「東京」が増えたわけじゃない。
増えたのは「国道16号線」的な郊外、である。
それが「それ以外」の街の正体である。
これは、人口動態の数字などだけを見てもわからない事実である。
先の大都市化が進んでいる、というのは、だから正確ではない。
東京的都市でも、田舎でもない。
国道16号線的、すなわち、その土地その土地の風土を吸い込んだ上での「郊外」という空間が、日本の大半を占めているのだ。
それ以外=郊外、なのである。
東京的2000万人を除く「それ以外」の住人が「郊外」の住人となっている証拠データが2つある。
一つは自家用車の登録台数の変化である。
89年まで日本の自家用車保有台数は三千万台を切っていた。
それが90年代のたった10年間でなんと2000万台も増え、2000年代には5000万台になり、現在は6000万台を超えている。
1990年からの過去30年間が、日本で一番モータリゼーションが進んだ時代なのだ。イザナギ景気の時なんかではない。
不破雷蔵さんのコラムがいつもクリアに見せてくれている。
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未婚者が増えた結果、独身世帯の数が2000年代後半から急増しているからである。
自動車の絶対台数そのものはずっと増えてきたのだ。
このグラフを見ればわかるように、日本の自家用車の保有台数はずっと増え続けてきた。リーマンショックの時に停滞しただけで、2020年代まで減ったことはない。人口の上限があるから、そろそろ頭打ちだが、減ってはいない。
ちなみに、世帯あたりの普及台数が減っているのは、未婚が増えた結果、独身世帯の数が2000年代後半から急増しているからである。
自家用車の絶対台数そのものはずっと増えてきたのだ。
つまり、日本は過去30年間、自動車社会へとひた走ってきたのである。
なぜこれほどまでに人々は、東京「以外」の人々は、自動車を欲したか。
ないとものすごく不便だったからである。一旦手に入れたら、魔法の箒のように便利だったからである。
背景にある1つの要因は、戦後の無秩序な都市無計画によって、日本中で、住宅が無限にスプロールして、コンパクトな街などなくなっていったプロセスがある。
新幹線に乗ると、思ったことはないだろうか。
日本はどこまで行っても住宅があるなあ。
この家の人たちは、どこに通って仕事しているんだろう?
あたりに鉄道はないし。
大丈夫。自家用車がある。そういうわけである。
さらにもう一つ、この自動車社会を後押ししたのがアメリカである。
91年にアメリカの圧力で大店舗法が緩和され、ついにはなくなった。
小売業の進出の邪魔をしていた、という論理である。
結果、それまで自由にお店を出せなかった郊外の道路沿いに、堰を切ったように、ドラッグストアやファミレスやモールが増えていった。アメリカに企業以上に、日本の企業が恩恵を受けたのだ。
2000年代半ばには、小売業の売り上げランキングから、東京的都市のど真ん中にあった百貨店や総合スーパーは姿を消し、コンビニとモールとドラッグストアと家電量販店が上位を占めるようになった。
いずれも自動車での来店を前提とした「それ以外」の人たちのライフスタイルに対応したビジネスである。
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百貨店は25位のエイチツーオー=阪急・阪神百貨店など 29位の三越伊勢丹のみ
以上のように、実態と数字で見ればわかるように、2020年代の今、意味のない定義によってまとめられた7400万人という大都市圏住民など存在しない。
日本の中枢システムが集約された2000万人の鉄道社会が東京的都市の正体である。しかも、その東京的なるものは、たった5つの区、千代田区と中央区と港区と新宿区と渋谷区に集約されている。
官公庁と政党と皇居と大企業本社と新聞社は千代田区に、証券会社と日銀と銀座が中央区に、テレビ局とIT産業は港区と渋谷区に、都庁は新宿に。
テレビ局の人と新聞社の人は、揃いも揃っておんなじ景色、おんなじ通勤路しか見ていない。報道の複眼性や多様性など望めるわけがない。
残りの日本人の大半は、「それ以外」=「郊外」に暮らしている。
1億人が東京的な世界の住人ではないのだ。
ところが、東京2000万人の中にいると、自分たちが日本のスタンダードであり、中心だと勘違いする。1億2000万人が東京人だと勘違いするのだ。
実態は逆である。
東京人はマイノリティーであり、東京人の常識の大半は「それ以外」の1億人の世界では、全く使い物にならないのである。
東京的都市の「エリート」は、自分たちが日本について、恐ろしく無知だ、と自覚した方がいい。