大東京カワセミ日記196 意外なところで巣作りを 20230319
朝イチで下流のカップルの巣作りを見たので、今度は上流のカップルを見に行く。
野球場のある、いつもいる場所よりずいぶん下流の大学の下のところで、鳴き声がして上流に飛ぶカワセミの姿。あれ、もしかするとさらに下流でも行動している?
公園脇の階段の定位置に。すぐに橋を抜けてさらに上流に。盛んに鳴き声がする。オスとメスが川の反対に。
こちらで二羽がしばらく囀りあいながら、それぞれエビを取る。
その後、オスとメスとで揃って階段の方へ。こちらでも並んでそれぞれエビを取り、この後上流へ。
公園に行ってみる。と、カワセミ迷惑おじさん看板が2ヶ所に貼っているにもかかわらず、迷惑怒鳴っちゃうおじさんが仲間のおじいさんと二人で。
人が通るたびにぶつぶつ「目の前を通ると逃げちゃうんだよな」とさすがに客にはもう怒鳴れないので隣のおじいさんに向かって話している。
で、結局公園にはカワセミ、現れなかったんだけど、なぜこのカワセミおじさんはほぼ出禁になった公園に現れたのか。
気づいた。
桜である。
この川沿いにも桜はあるが、高低差があるのでカワセミが止まることはない。一方公園では、池に迫り出した桜にしばしばカワセミが止まる。
カワセミおじさんはそれを狙っているのである。
で、前から不思議だったのはこの迷惑おじさんにこちらは限らない話だが、カワセミおじさんたちは大量のカワセミ写真を撮っているのに、ネットで見かけることはゼロである。彼らの写真顕示欲(写真をやる人には100%ある)はどこで満たされているのか。
お師匠さんのいる写真家集団である。その仲間内で発表をしたり、プリントを見せ合ったりしているのだ。
それは別にいい。が、面白いのは、カワセミおじさんたちが桜だの椿だの紅葉だのをやたらカワセミのバックにおきたい理由もわかったからだ。
写真コンテストはなぜか季語だの花鳥風月だのをテーマにする傾向がある。師匠はそのため花鳥風月季語系の絵をおそらくはお手本として提示する。生徒は花鳥風月季語系を無理やり探して、絵葉書写真を量産する。
公園にはまったく飛んでこない。
早々に退散して、川に戻り、下流へ。
野球場も前の梯子にオスメス2羽が。やはり随分下手にいる。
2羽はさらに下流に飛んでいく。
川沿いを蛇行して電車をくぐり、家と店が川沿いに立ち並ぶエリア。
と、そこで声がする。
オスとメスがホバリングしながら、このエリアの壁の水抜き穴をためしている。
なるほど。ここで巣穴探しの真っ最中なのであった。
その後、このカップルは、さらに2駅下流のs駅の手前まで降りてきて、巣穴を探していた。
こちらの巣穴が決まるのはいつだろう。
ところで。日本のカメラ雑誌の「自然写真コンテスト」「風景コンテスト写真」は、概しておそろしく退屈である。
歴史に文化的に固定された、陳腐な「花鳥風月」と「季語」のイメージに束縛された「年寄り構図」で撮り続けた作品が選ばれているからである。
現実の「自然」と「風景」はどうか。
陳腐に固定された「花鳥風月季語」の世界とは、しばしば全く異なる。
生き物は新しい環境に適応したものが結果としてサバイバルしている。
自然は固定してない。本来あるべき、なんてない。不可逆である。どんどん変化する。それは生き物の歴史が証明している。ほとんどは絶滅していなくなる。人間がいるいないは関係ない。
ましては、いま都市でサバイバルしている「自然」は、かつてのイメージとはまったく異なるにきまっている。
都市のカワセミをみているとよくわかる。
カワセミ花鳥風月写真をとりたいひとたちは、花鳥風月構図にカワセミを収めることに四苦八苦する。
桜にとまらせたい。紅葉にとまらせたい。ハスの花の上にとまらせたい。
そんな場所は限られているから、その構図の場所にカメラマンは殺到し、目の前を通る人に怒号を浴びせたりする。
もはやそんな陳腐写真は、AIが瞬時に合成してくれるだろうに。
現実のカワセミは、別に桜の花にも紅葉の紅葉にもハスの花にもアシの穂にも興味がない。
たまたま、餌をとるときにいいポジションにある足場であれば、なんでもいい。
工事現場のコーンでも、落ちた自転車でもなんでもいい。
とある場所のカワセミは、ふだん餌場としているところからずっと離れた同じ川の一見とても生き物なんかいそうにない、街が横に並ぶ都市のドブ川的三面コンクリートばりの水抜き穴を巣穴にすべく、いったりきたりしていた。
目の前にはひなたぼっこしている道沿いのおうちのおばあちゃんがお昼寝している。中学生がだべって歩いている。
おそらく誰も気づかない。水深は10センチ。外来種の藻がびっしりはえていて、空き缶なんかも落ちている。
そんな場所の垂直に切り立ったコンクリートの壁の穴を、カワセミはオスメスあげてぴいぴい鳴きながら巣穴探しをしているわけだ。
同じ川沿いの公園で桜にとまるカワセミをおそらく何時間もまっているおじさんたちをよそに。
リアル自然のリアルカワセミのリアル子育てに「花鳥風月季語」はない。あるのはコンクリート三面ばり水抜き穴。カラスにもタカにも蛇にも狙われにくく、人間はいっぱいいるが誰も気づかないその場所が、都会のカワセミにとっての自然なのである。
カワセミ自体は「変化」してない。自分の環世界のなかで、子育てにむいている!と検知できる場所をみつけて「適応」しているだけである。
人のいない時代ならば、カニがあけた土手の穴などを利用していたのとおそらくおなじことを、ただ繰り返しているだけ、なのだ。それがエンビの水抜き穴だった、というわけである。
目の前は、スナック。
ちなみに、おもしろい写真というのは、常に「ジャーナリズム」を背負っている。
つまり「発見」と「報道」である。
梅佳代さんが言った様に。
赤瀬川原平さんのトマソンもジャーナリズムだ。
多くの発見は、新発見じゃない。
みんなが毎日見ているはずなのに、みんなの「環世界」から抜け落ちている「陳腐ななにか」に、「見立て」と「コピー=ものがたり」を付加することで、瞬間、日常の陳腐が、すごいもの、観光資源になったりする。
その「見立て」と「ものがたり」の発明こそが、写真的発見である。
写真雑誌の「作例」写真が、おもしろい写真からもっとも遠いのは、必然である。見立ても、ものがたりも、ないからである。