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わたしが、わたしを、清く正しく美しく


禅の番組を見た。


禅の瞑想とは、ただただ、自分の内側を観察・実験するものだという。

向上しない
成長しない
「〜のために」しない

詩や音楽、絵を楽しむように、自分の身体(五感)を味わうもののようだ。



玉置浩二さんの「清く正しく美しく」という曲が好きだ。


ちょっと前に、
「美しく生きたいなぁ」と思った。


でも、
「正しく」と言われると痛い。


例えばよく言われる
“正しく怖れる”というフレーズに、やたらゾワゾワする。


なぜ痛いのか?
考えてみたところ…

⑴ 正しさなんて人それぞれだろうよ!と思う
⑵ 「間違って怖れていますよ」言われている気がする
⑶ 実は誰よりも正しさにこだわる自分がいる


わたしは家の中で権威者をやっていて、やたら「正しさ」を説いていた。だからこそ「正しさ」の匂いがすると敏感に反応してしまう。

「正しさ」のスローガンは、鏡に映った自分。
ちょっと前の権威的自分を見ているようで辛いのだ。


数年にわたる半鬱のような自問自答の期間を経て。

いつからか「正しさ」とは、清らかさや美しさと同じように、絶対的なものではなく、ひとの価値観や感じ方で異なり、人の数だけ正しさがあるのではないかと思うようになった。

まだどこかに権威の杖を隠し持っていそうな気もするけれど。

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舞い戻って、

「清く正しく美しく」という曲は、自分が自分のありのままをそのままに受けいれて、ねじ曲げないことを応援しているんじゃないのかな、と思う。

この歌の中の“正しく”とは、
そのままの “きみだけの”きみであること。
“泣きじゃくる赤子のように”生まれたままでいること。


後半にある
“汚れたものたちの最後のチャンス“
という歌詞が、いま、とても示唆的だ。


わたしのような汚れたものの「汚れ」とは、
教え込まれたり、自分で育んでしまったりした、
日常にあふれる
「あたりまえ」
「普通」
「当然」
「常識」…みたいなもの?だろうか。


その汚れは、いつか落ちる気がしている。
“なんか変” “しっくりこない”という違和感を大切に、隠さずにいれば。


SNSの「子供の頃の自分の写真をアップする」バトンリレーで、赤ん坊から思春期にかけての写真を見ていたら、乳児の頃のわたしは、まさに「清く正しく美しく」、明るいパワーのかたまりだったなぁと思った(サムネイルの写真はわたし)。幼稚園くらいからだろうか、まわりと自分を比較して、コンプレックスを身につけて太らせ、それを見せまいと鎧をつけてきんだなぁ、まぁ本当によく頑張ったねぇ…と、振り返ってわたしを抱きしめた。



赤ちゃんや子どもがいると、まわりがパアッと明るくなるのは、わたしたちが本来持っているパワーを、隠したりねじ曲げたり、出し惜しみしていないからなのかもしれないな。


まずは
わたしが、わたしを、清く正しく美しく。

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