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ヤン・ユンホです
初めての投稿であまり文章も得意ではないのですが、日記のように自分が思っていること、考えていることをアウトプットする場所としてnoteを使っていこうと思います!
目次
・幼少期
・サッカー選手を目指して
・留学を目指して
次回
・オランダ留学
・インドでインターン
・ベンチャーweb制作会社での悪夢
・今現在
・幼少期
可愛くない?笑
冗談はさておき、京都で生まれ京都で育ちました。3兄妹の長男として生まれ、父親は不動産で企業し、母は専業主婦の一人目の息子として育てられました。僕は韓国語が喋れない韓国人です!w日本で生まれましたが100%韓国の血を引き継いでいます。いわゆる在日韓国人ですね!幼少期の頃から大事に育てられ、炭酸飲料、チョコレートは歯が悪くなるからと小学生になるまで食べたことがなかったです。(その影響で今でも炭酸飲料飲むのが不得意w)韓国人として生まれましたが、親は地元の幼稚園、小学校、中学校、高校と行かしてもらい韓国語に触れる機会はおばあちゃんち行った時ぐらいで全然話せません。今思えば、幼少期から韓国語やっておけばと後悔。。
小学校からサッカーを始めて、小学生・中学生と地元のクラブチームに行かせてもらえました。会費や遠征費が毎月のようにかかるのに行かせてもらえたことを父親に、練習や試合の時に毎回おにぎりやお弁当を作ってくれた母親に感謝しても仕切れません。
・サッカー選手を目指して
白の6番が僕です。(監督にキレられてる写真w)
今現在23ですが、人生の半分以上はサッカーをしていました。やってるからにはプロを目指してやっていました。高校はサッカーの中堅校で部員は100名を超えていました。高校1年生の夏休み前くらいからTOPチームに呼ばれ、試合に参加させてもらっていました。ここから僕のサッカー人生が謳歌されていくのかと楽しみにしていたのですが、人生そこまで甘くなく夏休みの1年生大会が行われ、試合中に相手選手にスライディングされ足首の人体3本が切れ、腓骨を骨折し全治約1年の大怪我を負いました。めちゃめちゃ痛かった笑病院の先生に全治1年と言われた時、サッカー選手は諦めようと決めました。しかし不思議とサッカーやめようとは一回も思いませんですた。おなどしの選手が活躍していく中で、自分は地味なリハビリを続け今思えばよく続けられたなと思います。とても悔しい思いをしながら絶対スタメンとして試合に出ることを誓い、魔のリハビリ生活を終えいざ復帰したものはいいものの、めちゃくちゃ下手くそになってた。w自分が思ってるようにプレーができずそれもまたしんどかった。それでも練習を重ねて、3年にはスタメンで試合に出れるようになりました。この教訓は今生きている上でとても為になっていると思います。「諦めない心」の大切さ、悔しくて負けないと思う「負けん気」。この二つは高校サッカーで培えたかなと思います。
・留学を目指して
今の僕の最大の分岐点になったオランダ交換留学。このオランダ交換留学であの本田圭佑選手が所属していたVVV VenloのサッカーチームがあるVenloにあるFontys大学で英語とビジネスを学んでいました。
大学に入って特にやりたい夢や目標がなかった僕は大学一年生の時は地元のクラブチームでサッカーのコーチ、アルバイトに明け暮れていました。
そんな中たまたま大学のプログラムで無償で(大学費、渡航費)海外の大学に行ける情報を聞きつけ、感覚的にこれだと思い大学2年生から英語を勉強し始めました。人生で勉強(特に英語)なんてしたことなかったし、勉強への苦手意識が高かったのを今でも思い出します。
そのプログラムは大学の全学部から応募ができ、選ばれるのは10名ほど。(応募数は100名以上いたらしい)
応募資格としてTOEIC(その時初めてTOEICの存在を知った)の点数が採用対象に入っていたので初めてTOEICを受けたら250点。。。笑
TOEICは990点満点で評価されるのですが自分が受けて点数を見たときに、終わったwと思いました。
しかし、諦めることなく約半年間死ぬ気で勉強して450点まで伸ばしました。(そんなすごくないw)とにかく机の上での勉強が苦手だったので外に出てたくさんの京都の観光地で勝手に道案内のボランティア的なことをやったり、バーで外国人と話したりしてスピーキング、リスニングを伸ばしました。その結果なんとか選ばれし10名になりオランダ留学をつかむことができました。
今日はここまで