夏の曲なのに「青春」を歌う、夏の概念をバグらせるロックについて
世の中には、「青春」とタイトルにつけておいて、夏の情景を歌う曲がある。
そんな「青春夏曲」の代表例といえば、あいみょんの『青春と青春と青春』であろう。あいみょんを代表するシングル『君はロックを聴かない』のカップリングとして制作された曲であるが、のちにMV化されるほどの地位を獲得している、知る人ぞ知る名曲である。
そんな同曲であるが、「青春」という言葉をタイトルに3回も並べるという暴挙に出ている。だがしかし、「青春が夏風にのって」から始まるサビから分かるように、夏の潮風を想起させるサマーチューンであることは、誰の目、いや、誰の耳にも明らかであろう。この曲を照らしつけているのは、春の麗らかな日差しではなく、夏のジリジリとした熱視線なのである。
サビだけでも「夏風」「カレーライス」「花火」「金魚」と、現代らしい夏の季語がズラリと並んでいる。それゆえに、サビ冒頭の「青春」という言葉が、私にとっては一際目立って見えるのだ。しかしながら、そこに対して違和感を覚える、ということもないのが、なんともまた不思議な感覚だ。
そもそも「青春」という言葉が、もともとは「春」そのものを指す言葉であることを確認しておきたい。
現代的日本人のセンスから見れば、春といえばピンク色の桜、夏といえば青い海に青い空、秋は紅葉で赤く染まった木々、そして冬は真っ白な雪景色を思い浮かべることが多いであろう。しかしながら、「青春」という言葉が古代中国の生まれであったからなのか、中世あたりの日本でもこの考えだったのかは知らないが、もともとは「春」といえば「青」なのである。
いや、この説明にも語弊があるであろう。なぜなら、「青」は「緑」であるからだ。
日本語にはもともと「緑」という概念は存在せず、「青」という言葉が緑色をもひっくるめて色を表す単語として覇権を握っていたのだ。そう考えれば、「青春」という語の「青」は、草木が青々と生い茂った緑色を表していたのかもしれない。
しかし、「青春」という言葉には、「春」そのものを表す他にも、もうひとつ意味がある。いや、むしろ現代においてはこちらの方がメジャーであろう。それは、10代から20代くらいの若く、活力のある時代という意味である。
「青春」という言葉一つだけで、大人の方々は若かりし頃の大恋愛を思い出し、まさに青春真っ盛りの方々はこの青春時代を楽しもうとワクワクするのではないだろうか。それほどなまでに、「青春」という言葉に対して、日本人は魅了され続けている。
そんな「青春」を象徴する季節といえば、現代においてはいつだって「夏」だったのである。海、プール、水着、お祭り、浴衣、花火、山登り、フェス、いつだって夏のイベントには青春時代真っ盛りのカップルが出没するようになってしまったリア充爆発しろ。
「青春」という言葉から香る夏の匂いを、歌の中に閉じ込めた一曲がある。
三月のパンタシア『青春なんていらないわ』は、ヨルシカのコンポーザーとして活躍し、そして夏を彩る名曲を描き続ける音楽家、n-bunaによる提供曲である。「素直になれない女の子の夏の物語。」とMVの概要欄にて紹介されている本曲は、「青春」という言葉をフル活用し、夏の情景を見事に描いている。
大人になりたいけどなれない、告白されたけれども素直に返せない、いっそこの青春をこの夏に置き去りにしたい、という女の子の葛藤を見事に書き写したこの歌詞には、いつ見ても惚れ惚れする。そして、「青春」=「夏」の構図をサビの頭2行で定義し、「花火」「お祭り」を夏の象徴として援用する手法を用いている。私にはどうも、「かき氷といえばブルーハワイ!」と同じくらいの感覚で「夏といえば青春!」と高らかに宣言しているようにしか思えないのだ。
『青春と青春と青春』『青春なんていらないわ』で見てきたように、現代のアーティストの中には、「青春」という言葉を「夏だけどめっちゃ爽やかな春のような恋愛模様を彷彿とさせる語」として認識し、歌詞に使っている層が一定数いるのではないだろうか。もはや「青春」が夏の季語であるかのような、語として見ると違和感しかないが直感的に捉えると違和感が働かない現象が起こってしまっているのだ。
「青春夏曲」の進化はこれだけでは止まらない。2023年には、「青春」という言葉を「青い春」と崩して用い、さらに夏の情景を持ち出しているアーティストまで現れ出したのだ。
その曲こそが、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の劇中バンドである、結束バンドによる、『青い春と西の空』である。劇中歌が収められたアルバム『結束バンド』のリリースから約5ヶ月後にリリースされたニューシングル『光の中へ』に収録されているカップリング曲である。
この曲ではAメロの歌い出しから「8月の青空」と、モロに夏真っ盛りの時期を挙げている。また、2連目でも「汗ばんだTシャツ」というフレーズを用いて、この曲が夏の情景を描いている曲であることを如実に印象づけている。それなのに、サビではこう歌っているのだ。
なんと、「青い春」という、「春」を「青い」という言葉で形容する歌詞が登場するのだ。たしかに「青春」という言葉は「前の漢字が後の漢字を形容する」という形で成り立っている熟語であるかもしれないが、それでも「春」という一文字の熟語で表されたら、「8月」からは季節が逆行してしまっているのではないか。
結束バンドは、劇中の設定においては主人公である後藤ひとり(ぼっちちゃん)が作詞を担当している。筋金入りのコミュ障陰キャであるぼっちちゃんにとって、「青春」という単語はある意味では最も忌避すべき単語であるといえるだろう。しかしながら、結束バンドとしての活動やバンド経験を通して、まさしく「青春」の日々を過ごしてしまったのだ。
結果的に「青春」という言葉が似合わないと自覚しながらも、文化祭でのライブに辿り着いてしまった後藤ひとり。その文化祭のセトリ一曲目である『忘れてやらない』でも、「青い春」という言葉を用いて結束バンドのメンバーとして過ごした日々に想いを馳せている。
『忘れてやらない』では「絶対忘れてやらないよ」、「こんなこともあったって 笑ってやるのさ」と自分が過ごした「青い春」を記憶に留めておくと誓い、『青い春と西の空』では「世界は狭い、なんて大きな嘘だ」と「青い春」で直面した世界の広さに打ちひしがれている。「青い春」という単語には、自らが避けてきた「青春」という単語に最大限の抵抗をしつつも、「青春」の素晴らしさを肯定するという意味が含まれている、気がする。だからこそ、『青い春と西の空』では夏曲であるにもかかわらず「春」という単語を用いたのだろう。
本来は違う季節であるため、「春夏秋冬」のように季節を全て列挙する場合を除いては同じ歌詞に入りそうもないと思われる、「春」と「夏」という文字。その2つを引き合わせるのは、「青」という文字がもたらす爽やかさと、「青春」という言葉がもたらす10代特有の甘酸っぱさなのであろう。そんなことを考える、夏の昼下がりであった。
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