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ショック・ドクトリン(2) 〜100分de名著より〜

NHK「100分de名著」2023年6月に放送された内容に基づいております。
司会:伊集院光、安部みちこ
朗読:板谷由夏
語り:藤井千夏
指南役:堤未果(ジャーナリスト)
(番組URL)https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/blog/bl/p8kQkA4Pow/bp/p7jByMJRr7/

国際機関というプレイヤー、中露での「ショック療法」

戦争や災害などで国民がショックを受けている隙に急激な経済改革を進める政策、それが「ショック・ドクトリン」
この手法の裏側に迫ったジャーナリスト、ナオミ・クラインは、本来は中立であるべき国際機関、また中国・ロシアといった共産主義の国でもショック・ドクトリンが推し進められていたことを突き止める。

アメリカの新自由主義経済の理論から生まれたショック・ドクトリンが、なぜ、思想もイデオロギーも越えて世界を席巻していったのか?


「アジア通貨危機」

1997年7月、アジア経済を揺るがす「アジア通貨危機」が起こる。
欧米の投資家グループが短期資金を一気に引き上げたことで、タイの通貨であるバーツが暴落。
そこからインドネシア・マレーシア・フィリピン、そして韓国へと危機が波及した。

新自由主義のリーダー的存在、経済学者ミルトン・フリードマンは、「自分はいかなる経済措置にも反対であり、事態の正常化は市場に委ねるべき」だと主張。
欧米各国、そして国際通貨基金(IMF)も、次のような理由からアジアを救うための融資や、補助金を提供する気配を見せなかった。

190カ国が加盟するIMFでは、意思決定を行う投票権がそれぞれの国の出資額の割合によって決められており、出資額が一番多いアメリカが事実上の「拒否権」を持っていた。
また、IMFにはフリードマンを支持するシカゴ・ボーイズが数多く在籍していた。

アジア通貨危機は悪化を続け、特に韓国は財政破綻の寸前まで追い込まれる。
そんな中、IMFが韓国政府にある条件を受け入れるなら、融資を行うと持ちかける。
「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれるこの条件は、

  • 基幹サービス事業の民営化

  • 社会支出の削減

  • 完全な自由貿易の実現

といった、新自由主義の政策に基づくものだった。

さらにIMFは、当時、韓国大統領選挙に立候補していた主要候補者に、「当選したあかつきには融資条件に従う」と一筆書くことを確約させる。

韓国では労働組合が非常に強く、フリードマンの経済政策を導入することは政府としては厳しい状況だった。
しかし、背に腹は代えられず、韓国政府は条件を呑み、融資を受けることに決めた。
IMFとの交渉が成立した1997年12月3日を韓国の人は、「国民的屈辱の日」と呼び、政府を批判した。

IMFは、対インドネシアとも交渉を成立させた。
その結果、アジア各国で多くの民間企業が欧米の大企業に安く買い叩かれ、「企業買収バザー」と、メディアが報道するほどの事態となった。
そして…

国際労働機関(ILO)の調べによれば、この時期に失業した者は2400万人という驚異的な数字に及び、インドネシアの失業率は4%から12%へと跳ね上がった。
「改革」がピークに達していた時期のタイでは、1日に2000人、1ヶ月で6万人が失業した。
韓国では、毎月30万人もの労働者が解雇されたが、これもIMF主導による、まったく無意味な政府予算削減と金利引き上げの結果だった。

ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」

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【考察】

IMFは、
・元々アメリカの発言権が強い
・シカゴ・ボーイズも相当入り込んでいる

そんなIMFが、民営化を推奨し、それを条件に資金を融通。
 ↓
そして、外資が自由に参入できるよう自国の保護を徹底的に外す。

また、大統領選挙候補者に、
「当選したあかつきには融資条件に従う」と一筆書かせる。
もやは無法地帯
「選挙をやってもいいけれど、その後の自分達で国づくりをするのは、このルールのもとでやってね」と言っているようなもの。
これは民主主義じゃないし、国を人質に取ったようなもの。

ーーーある意味、侵略のようなものなんじゃ…

IMFという国際機関を救済してくれる機関だと信じていた人にとっては、すごく疑問が残ったし、その後の失業率もすごかった。

ーーー失敗だったということにはならなかったのか?

何をもって失敗とするかは、どの立場から判断するかによって180度変わる。
ただし、最終的には金融危機が沈静化したということで、IMFの政策は失敗ではなかったとされた。

また、この頃の日本は、中曽根政権で完全にフリードマン路線
電電公社や国鉄などがどんどん民営化され、まさに民営化元年だった。
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中国が行ったショック・ドクトリン

1980年、鄧小平率いる中国共産党政府は、積極的に新自由主義政策を取り入れるため、フリードマンを中国に招待。
それから3年後、鄧小平は中国市場を外国資本に開放
さらに、労働者の保護を削減する政策を実行する。
その上で、およそ40万人の人民武装警察を創設
反対勢力を弾圧することが極めて重要であったためだとクラインは述べている。

また、国家の資産が売却されるにあたって、党幹部とその親族がもっとも有利な取引をし、一番乗りで最大利益を手にできるようになったと分析した。

「天安門事件」

経済改革により、中国では物価が跳ね上がり、失業者が増え、格差が拡大してしまう。
その結果、共産党幹部の腐敗や、縁故主義に対する批判の声も大きくなった。
さらに、反民主的プロセスによる改革、失業の危機への不満が高まると抗議デモが起こり、北京、天安門広場に学生や労働者が集まり始めた。
そして1989年6月4日、天安門広場のデモ隊に人民解放軍の戦車が突入。
多くの死傷者、逮捕者を出した「天安門事件」が起こる。

武力によって鎮圧されたことにより、衝撃と恐怖のショック状態が中国全土に作り出された。
その後、中国共産党政権はさらに経済改革を推し進めていく。

中国を世界の「搾取工場」ー
すなわち地球上のほとんどすべての多国籍企業にとって、下請工場を建設するのに適した場所へと変貌させたのは、まさにこの改革の波によるものだった。
中国ほど好条件のそろった国はほかになかった。
低い税金と関税、賄賂のきく官僚、そして何より低賃金で働く大量の労働力。
しかも、その労働者たちは残忍な報復の恐怖を体験しており、適正な賃金や基本的な職の保護を要求するというリスクを冒す恐れは、長年にわたってないと考えられた。

ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」

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【考察】

ーーー自由主義と共産主義、相容れないというイメージがあるが…

ショック・ドクトリンは、国対国、イデオロギー対イデオロギーで見ると、分からなくなる。

ーーーでは、何で見るのか?

それは「欲望」
その時に求めているものが一致すると、強固になる。
事件が起きた後に、「どこに利益が集中したのか?」
そのお金の流れの入り口出口を見ると、どのような理由で起きているかが分かる。

中国は民主主義ではなかったので、ショック・ドクトリンが進むスピードがとても速かった。
フリードマンから見ても、自分の理論が気持ちのいいくらいスピーディーに進行。
「武装警察」も設置し、継続的に恐怖を生み出すインフラも作ることもできた。
その結果、非常にスピーディーに市場が開いていき、共産党の党幹部や、その関係者の利益がものすごく多くなった。

そして「天安門事件」が起こる。

天安門事件は、特に労働者・学生という風に報道されているが、クラインの本には、労働者やいろんな立場の人が反対したと書かれている。
「民主的ではないプロセスで、こんなにスピーディーに切り捨てるのはおかしい。
民主的なプロセスで情報も公開して、やっていって欲しい」
という声があったと。

ーーー抗議に対して、天安門事件を見せつけることショックの上塗り、あるいは政策の本質に気付いてしまった人達もショックで屈服させられる…。
6月4日は検索できないようにしたりとか、みんなにきちんと小さなショックを与え続けることで諦めさせるというのは、ショック・ドクトリンの得意技ですよね?

フリードマン理論をある意味、徹底的に妥協なくやって、中国にマーケットを開いて欲しかった。
中国には10億人のマーケットがあるので、財界や多国籍企業からすれば、とても都合がいい環境が既にそこにあった。
中国にとってもそれらの企業にとっても、Win-Winだった。


ちなみに、中国に関しては、映像の世紀バラフライエフェクト「竹のカーテンの向こう側 外国人記者が見た激動中国」の回が参考になりました。
https://www.nhk.jp/p/butterfly/ts/9N81M92LXV/episode/te/PM728GLK6X/
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ソ連で起こったショック・ドクトリン

1991年、ソ連初代大統領ミハイル・ゴルバチョフは、停滞していた経済を立て直すため、改革を進めていた。
およそ15年かけ、主要産業は国家の統制化に置かれながら、自由市場を取り入れようという計画。
しかし、欧米各国は「急進的なショック療法をすぐにやるべき」と、計画を一蹴。
IMFや世界銀行からも見放され、ゴルバチョフは四面楚歌になってしまう。

「ソ連崩壊」

そんな中、台頭したのが、ゴルバチョフの側近 ボリス・エリツィン。
1991年12月、エリツィンは一気にソ連を崩壊させ、ゴルバチョフを辞任に追い込む。
IMFや世界銀行は、エリツィンを熱烈に支持。
ソ連崩壊で国民をショック状態に陥らせた隙に、新自由主義政策を推し進めるようにアドバイスを行った。

そして、ロシア版シカゴ・ボーイズが、国有企業、およそ22万5000社の段階的民営化を実施。
「貿易自由化」「価格統制廃止」を行っていった。

エリツィンは大胆にもこう約束した。
「半年ほどは事態が悪化する」が、その後は回復に向かい、近い将来ロシアは世界で4本の指に入る経済大国となる、と。
だが、この「創造的破壊」とも言うべき理論がもたらしたのは、ごくわずかな創造と進む一方の破壊だった。
わずか一年後、ショック療法の打撃は壊滅的なものとなっていた。

ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」

「インフレ」で貨幣の価値が下がり、何百万という中産階級が老後の蓄えを失い、社会保障もカットされた。
多くの労働者がどん底の生活苦に突き落とされ、国民の不満は頂点に達する。

「議会砲撃」

1993年10月、反エリツィン派により議会は、エリツィンの弾劾決議を可決
しかし、エリツィンが軍を動かし、議会を攻撃すると、議会側はあえなく降伏。
エリツィンは大統領の座を奪い返した。

「オリガルヒ」

その中でシカゴ・ボーイズたちと手を組んでいたロシアの新興財閥オリガルヒ
莫大な利益を手に入れた。
一方民衆は、貧困に喘ぎ、大量の失業者が生また。
1日あたりの生活費4ドル未満の貧困ラインを下回る生活を送る人が7400万人に上った。

これに対しクラインは、

「まるで、富裕層と貧困層が別の国どころか、別々の時代に生きているようにさえ見える。」

と、述べている。

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【考察】

ーーーエリツィンが民主主義のために戦ったとか、ポジティブなイメージだったが…

しかし、中の人に言わせると、「エリツィンは民主主義を解体した」と言う。
つまり、エリツィンはオリガルヒ側、初めから財閥の側の人間だった。
ということは、IMFやアメリカ、西側のシカゴ・ボーイズたちと相性がいい。
民主主義を解体してマーケットを開くために、全力で外から応援するということで、西側のメディアも当時、エリツィンをものずごく持ち上げた

ーーーゴルバチョフがやろうとしていた、ゆっくりとした移行の方が、国民が納得した形になったのでは?

ショック・ドクトリンという経済理論は、とにかく「スピード」が大事!
チンタラやってると、「この長期計画の民主化のためにお金を融通してください」と言っても、IMFはむげに断り貸さない。
なので、ゴルバチョフは完全に四面楚歌になり、エリツィンが出てきて壊してしまった。

ーーー点で見ずに大局、すべての角度から見た上で判断していかないと…。
世の中のスピードがどんどん上がっている分、判断を失っている時に動くのが、このショック・ドクトリンの一番得意なところとするならば…

私たちは現在、情報が入りすぎて、何もかも速すぎて、ゆっくり判断する時間がなくなっている。
これはショック・ドクトリンとってはチャンス
速度を落とさないと、次々にショック・ドクトリンがやってくるかもしれない…。


ソ連・ロシアについては、映像の世紀バタフライエフェクト「スターリンとプーチン」の回も参考になります。
https://www.nhk.jp/p/butterfly/ts/9N81M92LXV/episode/te/YNRVWPP27R/
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…ショック・ドクトリン(3)に続きます

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