「イスラエル」 〜映像の世紀バタフライエフェクトより〜
ミケランジェロによる最高傑作の1つ「ダビデ像」
ダビデは、古代イスラエルのユダヤ人の王だった。
圧倒的な強さを持つ巨人、ゴリアテに奇跡の勝利を収め、エルサレムを都とする王国を築いたと聖書に伝わる。
古代ユダヤ人の国は3000年前、パレスチナに実在した。
しかしその後、バビロニアやローマ帝国などによって滅ぼされたため、ユダヤ人は国を失い、世界各地に離散することとなる。
ユダヤ人迫害とシオニズム運動
1930年頃のチェコスロバキアには、ユダヤ人の子供たちが歌う「希望」という名の歌があった。
世界各地に離散していたユダヤ人は、いつか「約束の地」に戻ると信じていた。
この歌は、後にイスラエル国歌となる。
ユダヤ人とは、厳しい戒律を持つ宗教、ユダヤ教を守る共同体。
キリスト教社会で異質な存在だったユダヤ人は、住む場所や職業が制限され、19世紀には半数が現在のポーランドなど、東欧で商売などをして暮らしていた。
ユダヤ人は、ヨーロッパで度々迫害を受けた。
中でも、19世紀末からロシアで始まった「ポグロム=集団虐殺」では、数十万とも言われる人々が命を落とすこととなる。
帝政ロシアは、溜まり続ける社会の不満を、ユダヤ人迫害によって吐き出させようとした。
この事件が引き金となり、ユダヤ人が安全に暮らせる場所を作ろうという「シオニズム運動」が始まる。
1909年、ユダヤ人66の家族がパレスチナの砂丘に渡たり貝殻のクジで土地を分けあった。
この場所は、「テルアビブ=春の丘」と名付けられる。
しかし、元々テルアビブは砂漠や沼地など農業には適さない土地だった。
金融業で財を成したユダヤ系財閥、ロスチャイルド家の資金を得て、土地を買い、農業を学んでいく。
後の初代イスラエル首相、ダビッド・ベングリオンは、19歳の時、ポーランドからこの地に移住した。
当時、パレスチナにはアラブ人が住んでおり、この頃は、ユダヤ人、アラブ人、互いの民族が共存して暮らしていた。
イギリスの二枚舌外交
1914年、第一次世界大戦が勃発する(〜1918年)。
ユダヤ人とアラブ人、両者の関係を壊したのは、第一次世界大戦がキッカケだった。
パレスチナのあるオスマン帝国は、ドイツ陣営(オーストリア=ハンガリー)に入り、イギリス(フランス・ロシア)など連合国と戦った。
イギリスは、ユダヤ人を味方につけようとした。
英外相アーサー・バルフォアは、ユダヤ系財閥 ロスチャイルド家から1000票を提供してもらう見返りに、「戦後、パレスチナにユダヤ人の郷土を作ることを支持する」と約束する。
その呼びかけにユダヤ人は立ち上がった。
ユニオンジャックの下にダビデの星が掲げられ、ベングリオンはユダヤ人部隊の伍長となり、志願兵を集めた。
1917年、ガザの戦い
国家建設の夢に燃えるユダヤ人部隊は、多くの犠牲者を出しながらもオスマン帝国の軍を撃退する活躍を見せた。
しかしこの時、イギリスはアラブ人とも国家建設の密約を交わしていた。
それが、「フサイン=マクマホン書簡」(1915年)。
内容は、「イギリスはアラブの独立を支援する用意がある」というもの。
この二枚舌外交が、今に至る「憎しみの連鎖」の原点となる。
ユダヤ人とアラブ人の協力を得たイギリスは大戦に勝利する。
しかし、ユダヤとアラブ、双方の約束を守ることはなかった。
パレスチナはイギリスの委任統治領となる。
ベングリオンたちは、自力での建国しかないと覚悟を決め、さらに多くの移民を集めていく。
乾燥した土地に井戸を掘り、「キブツ」と呼ばれる農業共同体を各地に作った。
ユダヤ人がキブツで歌った歌がある。
日本でもよく知られるフォークダンス曲、「マイムマイム」である。
マイムとは、ヘブライ語で「水」。
ベサッソンとは、「喜ぶ」。
井戸を掘り当てた時、それを囲んで和になって踊った曲だった。
ベングリオンたちの努力で砂漠だったテルアビブは、都市に生まれ変わった。
ユダヤ人一色の街を作り上げ、国家建設に向けた既成事実を積み上げようとしていた。
ナチスによるユダヤ人迫害
しかし、1930年代、ヨーロッパのユダヤ人に歴史上最大の悲劇が襲う。
ヒトラーは、ユダヤ人の民族的絶滅を掲げ、狂気の行動に出た。
ナチスによって、世界のユダヤ人の実に1/3にあたる600万の命が奪われた。
戦後もユダヤ人の苦難は続いた。
ホロコーストを生き延びたユダヤ人は、船でパレスチナに密航しようするが、イギリスは、アラブ人の反発を恐れ、ユダヤ人のパレスチナ移住を制限していた。
不法移民は、難民として「難民収容所」に入れられ、ヨーロッパに送り返された。
ユダヤ人のリーダーを務めていたベングリオンは、この窮状を世界に訴える。
国連、パレスチナについて協議、
ユダヤ人国家の樹立
1947年、手に負えなくなったイギリスは、パレスチナの委任統治を放棄し、解決を国際連合に委ねた。
国連は、エルサレムなどを国際管理とし、アラブとユダヤ、それぞれで土地を分割する案を提示するが、人口の少ないユダヤ人に半分以上の土地を与えるユダヤびいきの案だったため、アラブ諸国は猛反発を示す。
一方、ユダヤ系市民を自国に多く抱える国は、賛成にまわった。
アメリカもその1つ。
大統領 トルーマンは、国内のユダヤ系の票を集め、再選を勝ち取ろうとした。
投票の行方は、当時ユダヤ人に劣勢だった。
そのため会場のユダヤ人が議事を妨害し、採決を3日遅らせる。
その間に各国代表に融資をチラつかせながら、説得に奔走した。
賛成の票が続くと、傍聴席を埋め尽くしたユダヤ人から拍手が起こった。
結果は、賛成33、反対13、棄権10。
パレスチナ分割案は採択される。
翌年の1948年5月14日、
ベングリオンは初代首相として、ユダヤ人国家の建国を宣言した。
ユダヤ人の悲願が実現した瞬間だった。
テルアビブの街は、喜びが爆発する。
しかし、首相ベングリオンは素直に喜ぶことはできなかった。
中東戦争勃発
懸念は即座に現実となる。
第一次中東戦争(1948〜1949年)
イスラエル建国のその日、エジプトをはじめとする周辺のアラブ諸国がイスラエルへ侵攻し、第一次中東戦争が始まる。
結成まもないイスラエル軍は、多勢を誇るアラブ軍に圧倒されてしまう。
テルアビブの間近にアラブ軍が押し寄せた。
しかし、ベングリオンは周到な準備をしていた。
大戦終了後、不要になった兵器を世界中から買い付けており、細かな部品に分解し、織物機械と偽って密輸、器物で再び組み立てた。
新たな武器を手にして、イスラエル軍は反撃に成功する。
開戦から一年余りで戦争は終結する。
そして、イスラエルは領土を拡大。
ヨルダン川西岸とガザ地区を除く、多くの場所を国土とした。
聖地「嘆きの壁」は、アラブ側に残された。(ヨルダン川西岸:エルサレム旧市街)
イスラエルは世界中のユダヤ人に移住を呼びかける法律、「帰還法」を制定し(1950年)、15年間で人口を倍にした。
増えた人口を養うため、「水の確保」にも乗り出す。
北部の湖から水を送る巨大な水路を建設したが、イスラエルの巨大水路の建設は、同じ水源を使うアラブの周辺国に被害をもたらしてしまう。
水をめぐって、中東で再び緊張が高まる。
1967年5月、アラブ連合(エジプト)はイスラエル南のアカバ湾を突如封鎖する。
それによってイスラエルへの主要な物流はストップした。
第三次中東戦争(1967年)
一触即発の危機となる。
しかし、イスラエル軍はアラブ軍に正面から対抗する力はまだなかった。
空軍はアラブ側の1/4にも満たなかった。
イスラエル軍の指揮を取っていた参謀総長 イツハク・ラビンは、大きな賭けに出る。
1967年、第三次中東戦争勃発
ラビンは、自国の守りを捨て、ほぼすべての戦闘機200機をエジプトに向かわせるという、一か八かの奇襲作戦に出た。
エジプト軍の基地はわずか3時間で破壊され、反撃不能の状態となる。
その後すぐ、ヨルダンやシリアの基地にも進撃し、ガザ地区やヨルダン川西岸も制圧。
戦闘はわずか6日間で終結した。
ラビンは国民的英雄となり、この7年後首相に選出される。
何よりもユダヤ人を喜ばせたのは、聖地「嘆きの壁」を支配下に置いたことだった。
パレスチナ難民からパレスチナゲリラへ
イスラエルが領土を拡張するたびに、アラブ人は自らの土地を追われた。
1948年には、70万人ものパレスチナ難民が生まれ、その後も増え続けた。
アラブ人の憎しみを背景に、新しいリーダーが出現する。
後のPLO(パレスチナ解放機構)の議長、ヤセル・アラファトである。
エルサレムの嘆きの壁の近くで育ったと言われるアラファトは、国家の枠を超え、民間の志願兵を集め、武装ゲリラを組織した。
アラファトのもとには、家を失い難民となった多くの若者が集まった。
PFLP旅客機同時ハイジャック事件(1970年9月)
アラブ側は強硬手段で国際社会に怒りを訴えた。
1970年には、4機の旅客機を同時にハイジャックし、爆破。
ブラックセプテンバーによる宿舎襲撃(1972年9月)
その2年後には、ミュンヘンオリンピック期間中にイスラエル宿舎をゲリラが襲撃し、人質の11人が犠牲となった。
イスラエルの反撃
イスラエルも反撃に出る。
ミュンヘンオリンピックのテロの首謀者を、数年間かけて追跡し、10人以上を暗殺したと言われる。
パレスチナゲリラと最前線で戦ったイスラエル軍兵士がいた。
ベンヤミン・ネタニアフ、現在のイスラエル首相である。
ネタニアフは18歳の時、軍のエリート、特殊部隊に配属。
ハイジャック機への突入などで活躍する。
ネタニアフが特殊部隊に入ったのは、尊敬する兄、ヨナタンと同じ道を進もうとしたからだった。
エンテベ空港奇襲作戦(1976年6月)
1976年6月、多くのユダヤ人が乗るテルアビブ発の飛行機がゲリラにハイジャックされた。
犯人は106人を人質にして仲間の釈放を要求、アラブを支持するアフリカ、ウガンダに移動し立て籠った。
この時首相だったのが、第三次中東戦争で英雄となったイツハク・ラビンだった。
ラビンは、ネタニアフの兄、ヨナタンが所属する特殊部隊に困難極まりない作戦を命じ、ヨナタンたちは、それを成功させる。
(「サンダーボルト救出作戦」として、映画化された)
ラビンの描いた作戦とは、4000キロ離れたウガンダに特殊部隊100人を送り、武力で人質を奪還するという強硬策。
敵に気づかれないよう深夜の空港に隠密着陸し、飛行機から黒塗りの高級車を降ろす。そして、ウガンダの大統領の車列かのように扮装し、犯人が立て籠る建物に突入した。
イスラエルの特殊部隊は、わずか1時間半で、106人の人質のうち102人を救出する。
しかし、敵の銃撃を受け、一人のイスラエル将校が命を落としていた。
ネタニアフの兄、ヨナタンだった。
インティファーダ→ハマスを組織
1970年代から80年代にかけて、イスラエルは外国からの投資を呼び込み経済発展を遂げ、人口も400万を超えた。
さらに、国家予算の4分の1を軍事費に投入し、巨大な軍事工場を設立する。
アメリカなどから最新兵器も提供され、世界有数の軍事大国となった。
しかし、1987年
国際世論はアラブ側に傾いていく。
ガザ地区で始まった「インティファーダ(民族蜂起)」
パレスチナのアラブ人たちがイスラエル軍に石を投げる抵抗運動である。
この運動を支援するため、アラブ人はイスラム教の慈善団体「ハマス」を組織。
ハマスは病院を作って負傷者を助け、インティファーダは何年も続く長期戦となっていった。
武器を持たないアラブ人をイスラエル軍の戦車や機関銃が制圧する映像が世界中に届いた。
現場にいるイスラエルの兵士にも動揺が広がる。
1993年9月13日 オスロ合意
1993年、クリントン米大統領の仲介のもと、憎しみの連鎖を断ち切ろうとする歴史的な会談が実現する。
オスロ合意 調印式(1993年9月13日)
イスラエル・PLO双方が互いの存在を初めて承認し合い、パレスチナが暫定自治政府を作ることを認める合意が交わされた。
憎み合ったもの同士の和解。
イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長は翌年、ノーベル平和賞を受賞する。
ラビン首相暗殺
和平から2年後の1995年11月4日、
テルアビブで和平を指示する集会を終え、首相ラビンが車に乗り込もうとした時、至近距離から3発の銃弾が放たれ、ラビンは即死する。
犯人は、和平に反対するユダヤ人の若者だった。
ネタニアフ政権誕生
1996年6月
混乱の中、首相に選出されたのは右派政党の党首となっていたネタニアフだった。
2023年10月7日に始まった戦闘において、ガザ地区では民間人を含む30,000人が犠牲となっている。
「イスラエルの攻撃は、ジェノサイドだ」という声や、「悪いのはネタニアフだ、いますぐ選挙を」という声も上がっている。
番組では、初代首相ベングリオンが、現在の攻撃をやめない今のイスラエルを見たとしたら、どう思うだろうか?と、彼の言葉で締めくくる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?