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書くほどに気づく、思考の浅はかさよ。


これ、ホント・・・


人の目につく場所で書こうとすると、なかなか「言い切る」ということができない。

書くほどに、自分の思考の浅はかさに気づいてしまうから。


       *  *  *


ただの独り言や思いつきだったら箇条書きでいいし、なぐり書きだってかまわない。ぼく以外の誰かに見せるわけじゃないから、自分が分かればそれでいい。

それが、1つの文章にしようとするとどうだろう。

上から順に箇条書きをならべただけでは文章にはならないし、自分にしか読めないようななぐり書きの文字ではいけない。

頭の中に「点」のように散らばって見える文章の材料を、文脈や流れを作って「線」に仕上げなきゃならない。1つ1つの単語や言葉も、自分が認識している定義に立ちかえって丁寧に捉えなおす、または選びなおす必要がある。


そんな風に自分の脳内を行ったり来たりしていると、やがては自分の意思や感情の居場所にたどりつく。


僕が書くことをおもしろいなあと思い始めたのは、ここ。

散らばった独り言や思いつきを拾い集めていくと、それらが湧き出ている源泉にたどりつく。そこにあるのは、遠い昔にしまいこんだ情熱や後悔だったり、すぐ足元にあったのにしばらく見失っていた意思だったりする。

また、なぐり書きの文字をじーっと眺めていると、いかに自分が借り物の定義やだれかの受け売りに寄りかかって生きてきたか、よくわかる。そのなぐり書かれた言葉を1つ1つ、丁寧に、自分の言葉に書きなおす。そうすると、またさまざまな感情や意思がこみ上げてくる。


このように自分の外に向けて書こうとすればするほど、自分の内を知ることになるのだ。


とはいえ、そうやってようやくたどりついたもののほとんどは薄っぺらく、浅はかだ。

つい、「たぶん」「と思います」などと書いては言い訳の余地を残したくなる。

“ 文末に何となく「と思います」や「のような気がします」といった言葉を入れることで、あえて断定を避け、内容をうやむやにしたり、言葉を濁すことがあります。人は無意識のうちに断定を避け、そうではない可能性を残しておくような言い方をしているのです。これは一種のリスク分散と言えます。「いやいや、断言はしていません」「その可能性があると言ったまでです」こうした逃げ場をつくっています。”(電通報『「と思います」禁止令』)


書くほどに気づく、思考の浅はかさよ。


      *  *  *


それでも、僕はこうして書くことをやめられない。

次々と既存の常識が塗り替えられていくこの時世に、他人の言葉を借りて生きていくことが怖いのだ。


これからも1つでも多くの文章を書いて、自分自身の浅はかさを知り、1つでも多くの言葉を自分のものにしたい。



おわり。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます!


▼ 過去の記事はこちら。

『距離を取りなおし、鮮度を取りもどす。』


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