人は無限の可能性を持っている 〜45歳でもトライアスロンチャレンジ〜 ②
滋賀からはるばる茨城県まで来た。何県わたってきたかもうわからない。ゼッケンを確認して自転車をセットする。いろいろと忘れ物をしてきたかなと何度も確認するが、なにぶん初めてなので何かを忘れてそうな気持ちは全く消えない。
最初はショートディスタンスの選手のスタートからでした。次にあそこに自分が入っていると思うと、そわそわする。ちょっと心配だが、しっかりと練習はしてきたはずだ。
いよいよスプリントのスタートの時間になった。数百人のウェットスーツを着た選手たちが5列に並び、今か今かとスタートを待ちわびている。カウントダウンが始まり、一斉に水の中へ飛び込んだ。
水は緑色で、前を泳ぐ選手の姿はかろうじて見えるかどうか。時折、横の選手の手が当たる。「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせながら、ひたすら手と足を動かし続けた。
思い返せば、ここまで滋賀県から自転車を新幹線に乗せてはるばる来たので、もちろん自転車に乗るつもりで持ってきていました。しかし、度重なる恐怖と波の高さにリタイアという文字が頭をよぎります。仮にリタイアをすると当然自転車に乗らずに帰ることになります。ここまでの苦労を考えると、それだけは絶対に避けたいと思っていました。
そうはいっても状況はどんどん悪くなっていきます。息苦しさがいよいよ限界だというところで、クロールをやめて苦し紛れに平泳ぎで呼吸を整えようとします。しかし、呼吸は苦しくなるばかり。過呼吸になっているというのは分かっているのですが、知っている解決方法としては頭に袋を被るという荒療治です。まさか水の中でそんなことをするわけにもいきません。まして被るビニール袋も携帯していませんし。
レスキューの方に「リタイアですよね?」と聞くと、「リタイアしたければ、ボートで岸まで運びますが、ここで休む分にはリタイアにはなりません」と。
助かった。そして、そんなことならもっと早く教えてほしかった。とはいえ、教えてもらうすべもそもそもないんですけどね。10分ほど休んで、なんとか1周目の長い長いスイムは終わった。
次は2周回目です。1周回目のことがあったので、次の入水をするのにすごく迷いました。ただ、今の私にはレスキューの方のボートにつかまるという最後の切り札があります。もはや怖いものなしとなった私は、ちょっと休んで再び荒波の中に。もちろん大変ではありましたが、1周目と比べるとなんてことなかったです。なんとか2周回目をボートにもつかまらずに終えて、次は自転車です。
このトライアスロンという競技は、着替えなどの時間を「トランジション」と呼んで、競技時間に含まれています。プロ選手などは、いかにこの部分も効率的に進めるのかが、勝負を分けることがあります。私の場合は、とにかく生きて上がってこられたことが嬉しくて、はだしだったので、自転車のわきでウェットスーツを脱ぎ、自転車用のビンディングシューズを履いた。
自転車は近くの田んぼ道をひたすら20km走るということでした。いえ、水泳と比べると惰性で進むのでこんなに楽なことはありません。たまたま30km/hで走っている方がいらっしゃったので、その人の後を少し離れてついていってなんとかランに持ち込みました。今思えば、これは「ドラフティング」と呼ばれる、前を走る選手の後ろに付いて空気抵抗を減らす走り方だったかもしれません。当時は全く知らなかったのですが、実はトライアスロンでは基本的にこれが禁止されているのです。
最後のランは他と比べると距離も短いので思いのほか走れた気がします。5km港沿いの道を往復して終了でした。最初のトライアスロンは散々たるものでしたが、一応なんとか完走できたということで達成感を得ることができました。もはや、この時の私にとって順位やタイムとかは些末なことでした。とりあえず死なずに帰ってきたという安堵がありました。
予想外の気づき
この初めての大会で、私は重要なことに気づきました。それは、人生における「限界」とは、意外と自分で作り出しているものかもしれないということです。スイムで溺れそうになった時、レスキューボートという「休憩所」があることを知らなかった私は、リタイアか完走かの二択で思い詰めていました。しかし実際には、その間にも選択肢はあったのです。
もう一つ、この大会で痛感したのは、命の危険を感じた時、他のすべてのことがいかにちっぽけに見えるかということでした。スイムで本当に苦しくなった時、タイムも順位も、すべてが色を失いました。頭では分かっていたつもりでしたが、実際に体験してみると、命の重みは想像を遥かに超えるものでした。
走ることは、たいていの人ができる基本的な動作です。しかし、どこに荷重をかけているのか、まっすぐに足を蹴り抜けているのかどうか。そういった自分の体の使い方に意識を向け、改善していく過程は、若い頃には持ち得なかった姿勢かもしれません。ジムの先生に指摘された左足の開きも、自分の体に注意深く向き合うことで修正することができました。
そして、可能性や目指す場所を教えてもらってから、それに向けてどのような解決法があるのかを考えて実行して、それをフィードバックするそのことは私の得意かつ楽しめることだったというのを再認識しました。
自分で可能性に限界を設けるというのは絶対にしてはいけないと思います。私は幸い体が強かったから、多少の無理がききました。もちろんけがをしては元も子もないのですが、自分で自分の可能性をあきらめてしまうと、もったいないと本当に思います。
振り返ってみると、私自身は年齢という枠組みについて特に意識していませんでした。しかし、45歳でトライアスロンに挑戦すると周りに伝えた時、様々な反応に驚かされました。「その年齢で大丈夫なの?」「無理をしない方がいいんじゃない?」そんな声を何度も耳にして、多くの人が年齢という枠組みに縛られているのだということを実感したのです。
それは決して他人事ではありませんでした。私たちは知らず知らずのうちに、年齢によって可能性を制限する社会の中で生きています。誰かに「もう遅い」と言われなくても、自分で「まだ早い」「もう遅い」という線引きをしてしまう。トライアスロンへの挑戦を通じて、そんな無意識の制限について深く考えさせられました。
私は基本的に人間のポテンシャル(可能性)は無限にあると思っていますし、証明していけたらと思っています。この挑戦は、その思いを確かめる最初の一歩だったのかもしれません。
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