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日本のすがた 諏訪編

ある早大生

①日本のスイス

 大宅壮一は長野県のことを日本のドイツと称したがこの長野県の南部に位置する諏訪はさながら日本のスイスであろう。人口わずか四万七千人の諏訪市は日本のチューリヒである。北に八ヶ岳があり、毎年遭難者を出す。私が駅に着いた時分にも雪が降っており、一服しようと駅前の茶屋に入ったところこう店員に尋ねられた。
「あんた、まさかそんな格好であの山に登るんじゃないだろうね。」
 近年の日本ブームで多くの外国人が登山に来ているそうだ。彼らの中には日本を南国だと思っている者もいるらしい。もっともアメリカ人にとってはオキナワが「日本といえば」で最初に上がる地名であろうから理解できなくもない。彼らの中にはサムライを現存していると信じている者もいたと聞いて耳を疑った。大方のところ外国人の日本に対する認識はその程度のものなのだろう。
 少し話がズレたが私が諏訪を日本のスイスと言うには訳がある。それは決して長野市をベルリンに見立て、松本をフランクフルトと考えるからではない。私は諏訪大社に注目した。諏訪大社は本宮、前宮、春宮、秋宮に分かれている。前者二つは上社、後者の二つは諏訪湖を挟んで下社となる。つまり、中心がない神社である(ここで言う「中心」はあくまで場所の話であって決して神様のことではない)。この四つがそろってはじめて諏訪大社なのであって一つでも欠けてしまうと諏訪大社ではなくなる。なぜならば、一つ一つの社がそれぞれの役割を持ち、まるでスイスの諸州のように共同体の役割を演じているからである。独立こそしていないがこの四つの社はこの諏訪を構成する四大勢力であることは間違いない。

②本宮

 本宮に行くためには茅野駅からタクシーを捕まえると良い。行ってみるとわかるが予想以上に駅から離れている。歩いて行くには少し遠い。本宮は背に山を抱えておりこの山自体が御神体である守矢山であるという。鳥居をくぐると厳かな門が見下ろしてくる。石段を上って左手に拝殿がありニ礼二拍一礼。中こそ入れないが、賽銭箱のあたりから中が少し見えるようになっていた。ちょう神事をやっているようで多くの人が集まっていた。その一挙一動には魅了されてしまった。あの行事を何百年へたをすると何千年と繰り返しているのだろう。そう考えるとあの悠久の歴史も身近なものとして感じられた。
 マルローが日本の神道を神秘的と称して喜んだのは伊勢神宮を見たためだと聞くがおそらく諏訪大社でも同じことを言っただろう。諏訪大社の屋根に雪が積もり木と木の間から吹く風がゴーっと音を出している様は人の力を超えたものを感じさせた。
 奈良の大神神社の御神体は諏訪大社本宮と同じく山自体であり三輪山である。その点、諏訪と似ているが、諏訪の守矢山も三輪山の伝説に負けないものがある。もともと諏訪地域には土着の洩矢神がいた。そこにかの大国主命の次男である建御名方神がやってきた。二柱の激しい戦いの後、建御名方神に洩矢神は統治権を譲った。この洩矢神の子孫が諏訪の祭主である守矢氏にあたる。守矢氏は戦乱の世にも続き、まさにこの土地の天皇陛下のような存在なのである。
 本宮を意外と小さいと思う人はいるかもしれない。かく言う私も諏訪大社といえばあの秋宮のような立派な遥拝殿を想像していたため、はじめ本宮を見たときには落胆した。しかし、入口御門の布橋を見たときにはそんな思いは忘れてしまった。力強い彫刻で吸い込まれそうになるようなこの布橋は雪景色がとても似合っていて枕草子の世界を彷彿とさせた。布橋と呼ばれるには理由がある。それは御柱祭におけるせん遷座祭で婦人方が自分の手で織った布を神様の通る道筋に敷いたからだという。なんとも古代的な話であるが町が古代から断絶することなしに続いていることはこの町を再考する上で重要となってくる。

③蕎麦の不思議な縁

 諏訪は先の大戦で大規模な空襲を被っていない。私の調べたところではまったく被害は受けていない。長野市が畑にいた人まで殺されたことを考えると無傷であることに驚かされる。蓋し、会津や米沢などの空襲を受けなかった都市と諏訪は特別な関係にある。十割そばは諏訪の名物であるが各地に進出して多くの人に食べられているのはご周知の通りであろう。先述の会津、米沢は大喜びでこれをすすっていた。ところがである。本家大本の十割そばは突如廃れてしまったのだ。そば屋のおばちゃん曰く、絶滅しかけたそうだ。そこで会津や米沢の分家が本家のそばを立て直した。そばを食べていたからといって空襲を免れたとは考えられないがなんとも不思議な話である。

④神仏分離の傷跡


本宮の布橋を渡り尽くすとニ之鳥居に出る。地元の人の話だと明治元年の神仏分離令で神宮寺を中心とした多くの寺が取り壊されてしまったらしい。歴史を辿ると新政府方についた諏訪高島藩はこの神仏分離令を最初は渋った。もちろん祟りを恐れていたこともあっただろう。人々はどうか塔だけは残して欲しいと嘆願書を書いた。しかし、高島藩側はこれを黙殺した。今の基準から高島藩の執行を批判することはいくらでもできる。多くの歴史的建造物を破壊したことは認められる行為ではない。だからと言って高島藩が新政府の政令を突っぱねることはできなかっただろう。諏訪高島藩は小藩である。このときの人々にとって生き残るというのは切実なものだったのだ。
 現在、寺があったところには観光客用の洋館やプレハブのような住宅街が広がっている。私にすれば現代人の行為の方がよほど欺瞞に満ちているように感じられた。

⑤吉良義周の墓


法華寺の後ろに吉良義周の墓があると聞いて行ってみた。吉良義周というとかの松の廊下で浅野内匠頭に斬りつけられた吉良上野介の息子である。あの赤穂事件の後、お家の罪ということで高島で一生を終えた。その点、多くの亡命者がいたスイスを彷彿とさせる。最近の人にとっては「逃げ上手の若君」の北条時行のほうが馴染みが深いかもしれない。諏訪頼重にかくまわれ、少年が鎌倉奪還に一矢報いるこの話は日本人のいかにも好きそうな話である。
 吉良義周の話に戻るが彼の墓は小さなものでポツンとひらけた場所にあった。周りには草木が無造作に生えていて影の部分に雪が積もっていた。上野介の浅野内匠頭に対する仕打ちは彼の子孫にまで因果応報という形で返ってきた。因果とは凄まじいものであるとなにか感じさせるものがあった。

⑥秋宮

上諏訪駅から三分程列車に乗ると下諏訪駅に着く。駅の見た目が江戸時代を思わせる建物だった。諏訪は古来より温泉街であるため所々で足湯に浸かれる。駅のホームですら足湯がある。余程のことがない限りこの町で足湯に浸からないことはない。
 下諏訪駅は見た目こそ良いものの駅前の商店街はゴーストタウンのようであった。私の見た限りでは西洋料理店と理髪店の二軒しか開いていなかった。いくら趣のある昔ながらの看板が掲げられていても、店が閉まっているのでは意味がない。地方の歴史ある都市である諏訪のこの事態は決して東京人にとって関わりのない話ではない。地方の過疎化、没落は思わぬ形で現れてくる。
 先に秋宮に参拝した。秋宮は私の感覚では一番雰囲気が良かった。駐車場からは諏訪湖が一望でき、国の重要文化財に指定されている幣拝殿と神楽殿は立派なものであった。ちょうど光がいい塩梅で差し込んだ自分には感嘆の声が漏れてしまった。「神坐す」そう古人が表現した理由がよくわかった。こちらの神楽殿では本殿とは違い神事は取り行われてはいなかった。巫女さんの神楽が見れるかと思っていたがお預けとなってしまった。その代わり平家物語にまつわる話を老人に聞かされた。先程の駐車場は源平の争乱期に木曽殿に従った光盛の居城の跡地であったそうだ。光盛というと平家方の斉藤別当実盛との一騎打ちを能で見たことがある人もいるのではないだろうか。
 平家に次のようにある。

光盛
「かく申すは、濃国諏訪郡霞ケ城主
手塚別当金刺光盛なり。」
実盛
「仔細あって名のらじ、唯、首を取って
木曽殿に見参されよ。」
光盛
「あなやさし、いかなる人に渡らせ給へ
ば、みかたの御勢は、皆落行き候に、
ただ一騎残らせ給いたるこそ、優に覚
え候。名乗らせ給へ。」
実盛
「存ずる旨あれば名乗る事はあるまじい
ぞ。組もう、手塚。」

二人の激しい戦いは光盛の勝利に終わり、彼はその実盛の首を木曽殿に献上する。この実盛は幼少期の木曽殿の命の恩人であった。木曽殿はその首を見て涙を流したという。芭蕉の句に「夏草や強者どもが夢のあと」とあるがこの句の「夏草」を「枯草」にするとこの諏訪では会うかもしれない。

⑦春宮と共産党

春宮に行く途中、目に付いたのが共産党事務所だ。それは比較的大きい建物で選挙カーを一階のガレージにしまっていた。その建物の反対側に「共立病院」という診療所がある。一見普通の診療所なのだが、入口の所に「平和憲法を守ろう」と書かれていた。医療関係者に共産党員が多い話は知っている人もいるだろう。村上春樹の「国境の南、太陽の西」にも共産党員の歯科医が登場している。
 蓋し、この病院に取り付いている自販機には300円程の弁当が売っていた。おそらく勤労者の味方というアピールなのであろう。この勤労者というのがキーワードであり、共産党にはかつて無料診療所である「民主診療所」として東京自由病院を結成した歴史がある。その後民主診療所は急速に全国に拡大し、影響力を持った。それが民医連こと全国日本民主医療機関連合会である。HPを調べるとやはりこの共立病院は民医連長野に加盟していた。
 それにしても春宮の参道に共産党の事務所があるとは滑稽だ。真逆の存在が共存しているではないか。神道は地方神や仏教を取り込むなど吸収力のある宗教(?)であるがまさか共産主義もとは・・・。
 春宮のつくりは秋宮とそっくりだ。だが、こちらの神楽殿では暖房を取り付けるなど少し現代的で興ざめであった。確かに春宮は秋宮と比べて街中にある。神社の現代化はナンセンスであるとはいえ寒かったのだろう。

⑧憎き甲州商人

タクシーの運転手に次のような話を聞いた。もともと茅野駅から本宮につながる鳥居は見えたそうである。そこに四十年ほど前、甲府からやってきた資本家が鳥居の前にビルを建ててしまった。駅近で商業施設を建てれば儲かるというのである。当時の茅野の人は賛成した。彼らにも恩恵があると考えたからだ。しかし、事業は行き詰まりわずか数年で撤退、ただの古いビルが残った。つくってしまった以上取り壊す訳にはいかない。市議会は躍起になってテナントに店を呼ぼうとした。私の見たところそのビルはほぼ無人のようであった。
 甲州商人というと甲斐国の国柄をよく表している。甲斐は土地が痩せており、米があまり育たない。米よりも麦が育つというので「ほうとう」がつくられた。彼らは自国に産物を持たないゆえに商人として活躍したのだ。
 諏訪は甲斐と因縁の関係である。先述の武田信玄は豊かな土地を求めて信州を攻略しようとした。その際の第一関門が諏訪である。信玄は天文十一年の夏に桑原城の戦いで勝利し、諏訪頼重(戦国時代)を甲府に連行し自害に追い込んでいる。その頼重と側室の娘であったのが諏訪御料人で信玄との間に勝頼をもうける。諏訪は戦に負けたが武田家においては生き残った。それにしても、諏訪の武田に対する思いは複雑なものがある。
           令和六年師走


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