カカイさんの研究の一部公開ver.2
当記事について
この記事は下の記事(学会発表をもとに再校正したもの)をさらに大幅に加筆修正した紀要論文を界隈用にさらに身バレ対策を施したものなのだ。A4で20ページ分ぐらいあるので、目次作るけど、もしよかったら読んでほしいのだ。
はじめに
カカイには、脳性麻痺による両上・下肢の機能障害と広汎性発達障害という診断名がついており、生活の中で困難さを感じることが多々ある。他にも恋愛観の不安定さといったセクシュアリティ、異性装や男性らしさ、女性らしさ両方の部分的具有といったジェンダーアイデンティティのゆらぎ、この筆者の性に関する家族の理解の度合い、そして家族の老いへの筆者の向き合い方など、主観的な生きづらさを感じるようなものごともある。しかし、自身の障害や経験を他者に語ることができていると感じられず、もどかしさや劣等感がある。 障害を語るというときに何を語れば語ることができたといえるのか。また、自分の障害、それ自体を自分自身が納得して語ることに必要なこととは何か。そもそも、自分の「障害」、診断名以上の持つ意味は、どのようにして得られるのか。そのような問いから本研究は始まった。
1.先行研究
1-1.「障害」の語りを政治性やモデル・ストーリーから解放するには
まず、モデル・ストーリーという表象が持つ政治性の問題から出発し、どのように自分自身が納得できる病いの説明が得られるかを思索した、アルビノ当事者の矢吹の議論を参照したい。
星加(2007)によれば、政治性とは、「様々な主体が自らの経験する不利益についてその解消を求めて行う闘争のことである」という。「不利益をめぐる政治」の中では、「多数派の利害とラディカルに抵触することなく解消できる」ものや「非当事者にとって分かりやすい(その理解は必ずしも「正確」である必要はなくまずは存在を認知できさえすれば十分なのだが)」ものが扱われやすく、「そのような分かりやすさを持たない不利益が無視され、放置される」(星加,2007)。また、桜井(2002)によれば「モデル・ストーリーが、人びとのライフストーリーを聞くさまたげにな」っているという。以上から、政治性を伴う「モデル・ストーリー」がすべての当事者が語るべき物語として受け取られ、問題解決ができなかった経験は物語として語る価値がないとみなされてしまうといえるのではないか。それゆえ、物語の聞き手は、次第に当事者の経験の物語を、「モデル・ストーリー」に無意識のうちに回収しながら聞くようになるのだと考えられる。
矢吹(2017)は、当事者の経験について「モデル・ストーリーを相対化し、それよりもハードルの低い選択肢を提示することも必要である」という。その上で矢吹(2017)は、「モデル・ストーリー」を、「社会運動や社会調査」の中で「苦難から克服へ、抑圧から解放への転機という政治的な動機を仮託され」、これまで多数派から見過ごされてきた課題を明らかにし、「社会に向けて問題解決」を求めようとする当事者たちの試みの中で生まれた、病いに関する物語であると再定義している。この矢吹(2017)の記述から、「モデル・ストーリー」には、問題解決を他者に求めることを目的とした物語であるという点で、政治性が伴っていると考えられる。
つまり「モデル・ストーリー」は、多様な物語の可能性に沈黙という弊害をもたらしてしまう懸念があるといえるだろう。その点に対して、矢吹(2017)は自身の納得できる説明はいかに可能かを、ライフストーリー研究を通して探究した結果、「沈黙や語りがたさ」の表明、「嘘や揶揄」を用いることで、「政治性から離脱」して経験を語ることができることを明らかにした。ここから、自分自身が納得して語るには、「政治性から離脱」する必要があると捉えられる。しかし、その示された方略は、「モデル・ストーリー」に対抗しうる新たな当事者の研究の物語の可能性を示しているものとは言い難い。「沈黙」や「嘘」、「揶揄」といった方略を使わずに、「政治性」や「モデル・ストーリー」から距離を置いて、当事者が語ることはできないのだろうか。
1-2.当事者研究にみる可能性と課題
綾屋は、『つながりの作法』(綾屋・熊谷,2010)の中で、当事者研究を、似たマイノリティ性を持った人同士で表現をしたり、それに対して応答したりすることで、新たに自分の周囲にある物事の意味や独自のマイノリティ性の理解を明らかにでき、「自分が何者なのかを把握していくことができる」ものだと紹介している。『当事者研究の研究』を著した石原(2013)によれば、当事者研究は、権威的な医学者や教育者などから語りを取り戻し、自己を再定義し、問題を外在化して他者と対話し、人とのつながりを回復することを通して、自分を助ける方法を身に付けていく営みであると述べる。石原(2013)は「当事者」という言葉について、誰しもが、弱さや苦悩を持っているという点で「誰もがすでに当事者」であるとして、その適用可能性を広げてもいる。また、大高・いとう・小平(2010)は、当事者研究で生まれた言葉をテキストマイニングで分析し、当事者研究には、仲間との相談やミーティングを通して、自分の中の苦労や問題を明らかにし、考えることができるという構造があることも示している。
ここから、当事者研究は、当事者コミュニティの中で、当事者性や解釈を立ち上げ、問題解決を志向する営みだと推察される。一方で、当事者性の不確かさがある者は、自分自身のことをどのように語りだし、その解釈を立ち上げればよいのだろうか。
1-3.「語るとはどのような営みなのか」を一から考える
そもそも語るとはどのような営みなのか、Benvenisteやそれに基づく國分による思考と言語の可能性の議論を参照しながら再考したい。
Benveniste(1966;河村訳 1983)は、「思考の発展は、言語の個別の性質よりも、人間の能力、文化の一般的条件、社会の組織体制の方にはるかに緊密に結びついている。しかし、思考の可能性は、言語能力に結びついている。というのも、言語とは形式をもった意味作用の構造であり、思考するとは言語の記号を操ることだからである」と、思考と言語の関係性について説く。それに基づいて、國分(2017)は、「言語は思考の可能性を規定する。すなわち、言語は思考に素地を与える」とまとめ、思考には言語が展開するための場が必要であると主張している。つまり、言語は、思考や語りを組み上げていくために必要な条件であり、どのような語りが他者になされるかは、語りが展開する場、語っているその瞬間における語りに関係する様々なコンテクストの影響を受けると考えられる。この言語が展開するための場についての議論に関して、桜井(2002)は、ライフストーリー研究におけるインタビューについて、「インタビュー過程の相互行為によってライフストーリーが<いま-ここ>で構築されるとすると、語りそのものは語られる場によって変化する」と論じている。よって、語りの研究において、語りの内容
だけではなく、その語りがなされる場にも注目する必要があると考えられる。
環境としての語りの場の重要性については、先に指摘した通りである。では、どのような言葉を使って語るのかという「語り方」についてはどうか、Benvenisteの中動態という概念を参照したい。Benveniste(1966;河村訳 1983)は、思考に関する記述とは別に、動詞の範疇の区別として、現代では何かの動作や行為を「する」という意味を持つ能動態(actif)と「される」
という意味を持つ受動態(passif)の対立が想定されているが、歴史時代以後の古代では、主辞が問題となる動詞の表す動作や行為、現象の過程の外にあるか内にあるかに従って主辞を位置づけるように能動態と中動態(moyen)が対立していたとまとめ、加えて「受動態は中動態の一様相であり、後者(中動態,筆者注)から発生したもの」であるということも指摘している。また、「≪能動≫という両者に共通の用語にしても、≪中動≫と対立したときには、≪受動≫に対立したときと同じ意味をもつことはありえない」という。例えば、「私が彼女にプレゼントを贈る」のように主辞となる実在がその外にある実在に働きかけることで終了するような行為は能動態で表現されるのに対して、「私が彼を好きになる」のように主辞となる実在の内部で原因となる現象が起き、感情の変化のようにその結果となる現象も主辞となる実在の内部で起きるようなことは中動態でしか表現されえないということである。そして、熊谷は、國分との対談(2017)の中で、能動態と受動態の対立軸で考えている限り、犯人捜しになってしまい、責任や原因を何かに帰属したり、問題を個人化したりしてしまうという。このような還元主義的な考え方は、自身の経験の自由な解釈や他者との共有可能性を奪ってしまう。その問題を解消するために、熊谷は、「自分を語り直すときの言語資源として、中動態」が役に立つ可能性を指摘している。(熊谷・國分,2017)。加えて、國分(2019)は、斎藤と、中動態とオープンダイアローグの関係について討議する中で、自分自身が「免責されることで引責できる」と指摘し、外在化や免責を通して本人が責任感を持つことができると主張する。
以上から、「障害」という当事者の内部で起こっている経験を責任の明示や原因の帰属ではない形で語りにするにあたって、中動態という動詞のあり方が役立つと考えられる。
「語り方」については検討した通りだが、その一方で「聴き方」はどうであろうか。当事者研究と中動態の関係について、熊谷との対談で國分が、当事者研究の結果を聞いている側にも、中動態的な変化のプロセスが生じると指摘するように、「障害」の語りにおいて、聞き手は重要な役割を果たしているといえる(熊谷・國分,2017)。さらに、熊谷も、認知行動療法と当事者研究を中動態の内部で何かが変化するという考え方の面から考察し、認知が大きく変化するのは話し手よりも聞き手の側であると指摘している(熊谷・國分,2017)。もし、聞き手の側の認知の変化が、聞き手の反応や発言にも反映されるとするならば、誰が語るかという行為としての語りの主語も曖昧な形で、語りの場自体から語りが自然発生するようにしてようやく「障害」は納得して語られるのかもしれない。
以上から、当事者性の不確かさがある者が、沈黙や嘘、揶揄を使わず、政治性やモデル・ストーリーから距離を置いて、自分のことを納得して語るために必要なことを探るには、語りの場、語る際に使用する言語の(種類ではなく)形式、聞き手と語り手それぞれの語り方や聞き方、すなわち「態」に注目することによって解き明かされる可能性が示唆されてきた。それは具体的にどのような場で何をいかに語ることなのだろうか。
2.目 的
本研究では、自身が納得できるような「障害」の語りとはどのような場で何をいかに語ることか、そこでは「障害」はどのように語られていくのかを明らかにすることを目的とした。
3.障害と「障害」の区別について
本研究では、筆者が医学的診断を受けた脳性麻痺や広汎性発達障害、それらの語義や症状を鍵括弧のつけない障害と定義する。それ以外に語られた物事をすべて「障害」として捉える。
4.方 法
4-1.研究対象者と研究協力者
本研究の対象者、つまり語り手は、筆者であるカカイ(以下語り手と表記する)とした。また、本研究には、語りの聞き手が必要となるため、Aさん、Bさんの2名(以下聞き手と表記する)に研究協力を依頼した。
4-2.手続きとその手順
調査は2019年9月に行われた。
語り手は、2名の聞き手に対し、以下の2つの聴き取り方を依頼した。それは、1点目に、語り手のことをわかろうとする態度で聴いてほしいということ、2点目に、可能な範囲で語り手の語りがその場で共有できている感覚が得られたら言葉で返してほしいということであった。加えて、聞き手それぞれに異なる聴き取り方を依頼した。それに関しては、次章、5. 結果の中で記す。
調査時間はそれぞれ約60分ほどであった。2回とも最初は語り手が障害を語ることから始めたが、以後は会話の流れに委ねた。
インタビュー終了後は、逐語録をWordファイルで作成した。Wordのコメント機能を用いて、発話ごとにインタビュー時、語り手が感じていたこと、考えていたことを逐語録内に記述した。そのWordファイルを聞き手に送付し、逐語録の内容の確認と、語り手同様に発話ごとに聞き手が感じていたこと、考えていたことを記述し、返送するよう依頼した。
4-3.分 析
本研究の分析は、長谷川(2017)の方法を参考に、プロセスレコードの記録法に則して行った。プロセスレコードとは、主に精神看護において用いられる、看護場面の再構成法である。看護場面の再構成を通して、患者と看護者の相互作用過程やそれを成り立たせている要素、その働きを明らかにし、看護実践に役立てることを目的としている。具体的には、まず患者・看護者それぞれの言動と、看護者がそのときに感じたり考えたりしたことを記述することで、看護場面を再構成する。それを改めてあとから振り返って分析、考察を行う。その後、患者の言動やその意味の理解、自身のかかわり方の問題点の発見、学びを整理する。最後に、指導者や学生と共有し、助言や評価をもらう。以上を通して、看護学生が、患者と看護者の関係を中心に対人関係や患者対応の技術を習得できることが、プロセスレコードの持つ役割とされている。
「障害」の語りがどのように生起し、変化するかを、語りの相互作用過程に注目して検討するために、先に示したプロセスレコードの手法を、本研究に即して筆者が改変した。分析は、調査者であるところの聞き手(協力者)、被調査者であるところの語り手(筆者)の双方が、発話やそのとき感じたり考えたりしたことのデータを複数回読み込んだ上で、行った。具体的には、なぜその時そのような発言があったのか、なぜ語り手の語りが理解できた、あるいはできなかったのか、それによって語り手や聞き手がどのような様子だったことが見て取れるのか、どのようにして双方が記録したそのとき感じたり考えたりしたことが湧き上がってきたのか、何が語り切れた感覚、あるいは語り切れなかった感覚につながったのかなどについて考察を深めた。これにより、語りの相互作用を双方の視点から見直し、「障害」の語りとは何をいかに語ることかを検討することにつながると考えられる。
さらに、一部の分析の過程で、筆者以外に2名から5名の大学生、大学院生が分析に立ち会った。分析の間には教員1名からの助言を基に適宜修正も行った。これは、語りの場にいた当事者である聞き手(協力者)や語り手(筆者)以外の視点を取り入れ、より広い視点で語りの場を見ることを意図していた。それに加えて、分析を通して、語りを一般化するのではなく、調査データから日常生活などの他の場面での語りへの類推や転用可能性に開かれたものにすることも可能になった。
4-4.倫理的配慮
本研究は、(所属先の)研究倫理委員会からの研究に関する倫理的配慮について承諾を得ている。
5.結 果
以下に本研究で得られた結果を示す。なお、以後、結果の中で発言のデータを提示する際には、筆者である語り手のことをカカイと表記する。また、そのまとめ(地の文)の中では筆者のことを語り手と表記する。そして、インタビュー時、語り手と聞き手が感じていたこと、考えていたことは、発話ごとに発言のデータの直後に(太字) で表記する。
5-1.Aさん:「障害」を共に語る ― 突然の不謹慎さの中にも現前し共有される「障害」
a.背景・語り手との関係性
Aさんとは、障害当事者のプログラムで出会った。Aさんには、身体障害がある。また、身体機能の維持を目的としたリハビリテーションを受けた経験もある。
b.実施方法
インターネット音声通話ソフトウェアを利用して実施した。調査ではビデオ通話機能は利用せず、音声のみでのやり取りだった。また、調査前日に、同じく音声通話にて、調査についての説明と協力依頼を行い、互いの近況報告などの本研究に直接関係のない雑談もした。
c.個別に依頼した聴き取り方とその意図
1点目:語り手の語りと共通する点を見つけながら聴いてほしいこと。
2点目:語り手と語りを一緒に紡ぎ出してほしいこと。
以上の2点を依頼した。これには、語り手とAさんの経験の共通性や違いを活かして、共に自然と「障害」を語り紡げるのではないかという語り手側の意図があった。
d.語り
Aさんとの調査では、語り手から語られた「障害」の中に、先輩後輩関係や恋愛関係を含む人間関係全般において、コミュニケーションの苦手さをなんとかできない、駆け引きができない、金銭的にも精神的にも他者に尽くし過ぎてしまう、というものがあった。そのような語り手自身の「障害」を他者に伝えようとしても理解してもらうことができないため、人間関係がうまくいかず、それが語り手の問題のように感じられるということも語られた。以下に示すデータはそれに対するAさんの応答から始まる。
Aさん:ま、私からしたら、それはカカイのキャラクターでしかないのね
カカイ:まあね
Aさん:あの、うんうん、そういう困難があっても、まあカカイやし、みたいな
カカイ:うん
Aさん:うん、しゃべりすぎるところが、カカイやしみたいな
ここでAさんは、語り手の「障害」だと感じているコミュニケーションの苦手さに関する語りを受けて、それが語り手のキャラクターであり、語り手自身であるという肯定的な捉えを語り手に対して示した。それに続けて会話は以下のように展開した。
カカイ:(笑)……うん
Aさん:うん
カカイ:そうね
Aさん:うん
カカイ:だから、今のところはそういうあなたみたいに、そういうのがカカイだよねって、言ってくれるような人としか、付き合えないのよ
Aさん:うん。いや、でも、私もそうだよ
(このときのAさんは、なんだかんだで今まで付き合ってきている友人たちは、障害も含めて私を受け入れて、それを良しとしてくれているような気がしていると、Aさん自身の友人関係を振り返っていた)
カカイ:えっ、そうなの?
(このときのカカイは、自分だけの特異で異常な経験だと感じていた、自分を受け止めてくれるような人としか付き合えないということが、Aさんにもあることに驚いていた)
Aさん:うん、多分そうだと思うよ
カカイ:へー、そうなんだ
Aさん:え、そうだよ。あの、そう、すごい、あの、そうだなーっと思ったのがさ、やっぱし、なんだっけ、後輩とかにさ、何してあげたらいいみたいなのあったじゃん。うんうんうん。すごいわかる。うん
ここで、語り手は、戸惑いながらもAさんの語り手に対する肯定的な捉えを引き受けた。その上で、だからこそAさんのように自身のことを受け止めてくれる人としか「付き合えない」、それは自分の「障害」であると語った。それに対してAさんは、「私もそうだよ」と語り手と経験が共通していることを示した。語り手は、人間はうまくいかない人ともある程度は付き合
いをするのが当然で、それができない自分がおかしいように常日頃から感じていた。そのため、Aさんの「私もそうだよ」という言葉は、語り手の驚きと安心感を引き出した。一方、ここではまだ、語り手もAさんも、自分は自身のことを受け止めてくれる人としか付き合えない、自分も後輩に何をしてあげたらよいのかわからない、というように他者との関係構築の難しさを
自分自身の問題だと引責して捉えており、免責はできていない。
続けてAさんは、語り手が語った後輩との関係から話題を膨らませて、Aさんが中学、高校時代に部活動に所属していたことや大学時代に委員会に所属して活動していたことを語った。以下に示す語りは、その後に語られたものである。
Aさん:で、まあ、後輩できるやん
カカイ:うん
Aさん:とまどうよね。何か、先輩とかはさ、本当に、先輩には好かれ やすいんよ
カカイ:うん
Aさん:ううーん。一緒、一緒やと思うんやけど
カカイ:一緒や
Aさん:何してあげたらいいかわからんというか、うん、後輩に好かれた、記憶はない
カカイ:えー、そうなの!?
Aさんは自分にも、語り手と同様、先輩には好かれるが、後輩とはうまくいかない経験があったと語った。ここでも語り手には、驚きと安心感がもたらされた。先輩との関係と後輩との関係の違いや付き合い方の難しさという経験の共通性が、語り手の驚きと安心感を契機にしたAさんとの間の語り合いで共有されたといえる。
カカイ:先輩って何なんだっていうのが何にもわからない
Aさん:そうねえ。いや、多分、先輩好きやし、甘えていくのっていうか、こう、遊びましょうって、ご飯、行きましょうみたいな、そういうのは、言えるし好き、好きやし、可愛がられたいし。後輩ってなるとなあ、なんかなあ、どうしていいかわからん
カカイ:わからんなあ
その語りに刺激され、語り手は、自分が先輩と同じ年齢になっても、同じように振る舞えないという気づきを言葉にした。Aさんは、語り手の言葉に理解を示し、Aさんの先輩と後輩、それぞれに対する捉えを語った上で、「どうしていいかわからん」とまとめている。語り手もまた「わからんなあ」と同意を示した。ここで、先輩との関係と後輩との関係の違いや付き合い方の難しさという経験の共通性が、語り手の驚きと安心感を契機にしたAさんとの間の語り合いで免責の形で共有された。
しかし、ここから話は思わぬ方向に進む。
Aさん:いや、な。でも多分、これは、その恋愛関係においてもそうで、与え、自分が与えられるものって、こう、ない、から、引いちゃうよね
カカイ:うん、そうだね
Aさん:うん、そう。もしさあ、ここで、もしかしたら、巨乳だったりとかしたら。
(このときのカカイは、不意打ちの「巨乳」という言葉に、どういうことなのかと驚き、笑いをこぼした)
Aさん:どうもないのかなあとか、いろいろ自分なりに思うわけ
カカイ:(笑いながら)そうねえ(戸惑いながら)巨乳だったら確かに、巨乳だったら
Aさん:与えられるものがないからね。
(このときのカカイは「与えられるものがない」という表現が腑に落ちていた)
カカイ:そうだね。いや自分もそうだな(笑いをこぼす)そうだよね。与えられるものね
Aさん:うん。いや、与えて、だから、すごい、いろいろ、まあ、障害者は、だからっていうのもあるのかもしれないけど、助けてもらうことが、本当に多いんやんか
カカイ:そうだね
Aさん:何、私はね。何にしても、ご飯食べるにしても、
カカイ:あーあー
(このときのカカイは、Aさんはご飯を食べるにしても介助が必要だが、カカイはそれが必要ない。助けてもらうことの意味合いが違うのにそれに気付かず、カカイもAさんと同じだと思いながら、Aさんの語りを聴いていたことに申し訳なさを感じていた)
Aさん:何かを、何かをするってなったら、もう、身体介助がいるからさー、やってもらうことが多い中で、じゃあ私が何を相手に返せる?与えられる?っていうのを、考えてしまうと、まあもやもやするよね
(このときのカカイは、相手に返す、与えるというのは、本来考えなくてよいことであるにも関わらず、なぜか考えてしまうというのが、自分にもあってわかるなと感じていた)
カカイ:うん
Aさん:うん
Aさんは、語り手が語った恋愛経験での駆け引きの苦手さを引き合いに出しながら、先輩後輩関係と恋愛関係には共通するところがあると語り出した。Aさんの場合は「自分が与えられるもの」がないため、恋愛に積極的になれず、「引いちゃう」と語った。語り手は、「与えられるもの」がないという表現に納得し、相槌を打った。しかし、ここで、Aさんの語りは、急展開する。Aさんは、「巨乳だったりとかしたら」恋愛関係や人間関係で、他者からも引かれず、自分からも引かずにより積極的になれるのではないかと言った。語り手は、「巨乳」という単語に大きく驚き、戸惑いつつも、相槌を打った。このとき語り手は、もし自分が最初から女性として生まれており、巨乳であったら、自分にも男性が自然と寄ってきて、人間関係や恋愛に
困ることはなかったのかもしれず、もしそうであれば今のように自分の「障害」とは何かなど気にしてしまうことなく、幸せに生きていけたのだろうかなどと妄想を膨らませていた。
さらにAさんは、「与えられるものがないからね」と再び強調した。ここで、語り手は、Aさんから語られた巨乳の語りを踏まえた上で、Aさんの表現が腑に落ち、「自分もそうだ」と共感しながら、語りを共有物として受け取るような表現をした。
その後、Aさんは、障害者は人に助けてもらうことが多いからこそ、自分が与えられるものがないことを意識すると語った。それに対しても、語り手は理解を示した。加えて、Aさんは、Aさん自身の場合、何をするにしても身体介助が必要になるため、助けてもらうことの多さを意識すると語った。それに対して、語り手は、語り手自身とAさんの立場の違いに改めて気づかされ、その点を深く考えずにAさんの話を聞いていたことに申し訳なさを一瞬感じた。ただ、その後のAさんの「何を相手に返せる?与えられる?」ということを考えてしまって「もやもやする」という語りに対して、語り手は自身との共通性を改めて感じ、理解した。
語りの共有感や語り手とAさんの間の前提の違いに対する一種の申し訳なさの感情が語り手の中に渦巻きつつも、結果として語り合えている感覚を語り手は得た。
5-2.Bさん:応答のないモノローグ―緊張の緩和と離脱に誘い出すもスルーされる→共に「障害」という現象を考察する
a.背景・語り手との関係性
Bさんは、以前語り手が在籍していた大学と同じ大学の大学院に所属していた、語り手の先輩にあたる人物である。修士論文では、自閉症スペクトラム障害(ASD)当事者の逆境体験がいかなるものかをインタビュー調査によって描き出そうとする研究をされていた。現在は、ASDのある子どもの支援者である。また、Bさん自身にも、人と関わることの苦手さや心の中に漠然とした生きづらさがあるようである。
b.実施方法
語り手の所属していた大学の相談室で直接対面して行った。調査当日、近況報告をした後、調査開始直前に、調査についての説明と協力依頼を行った。その後、調査を実施した。
c.個別に依頼した聴き取り方とその意図
1点目:静かに相槌を打ちながら聴いてほしいこと。
2点目:語り手の語りとBさんの他者との関わりの経験が共通する点を思い出し、その共通性を可能な範囲で言葉にして語り手に投げ返してほしいこと。
3点目:語り手の語りに突然ツッコミや鋭い指摘を入れることはしないこと。
以上の3点を依頼した。これには、このような聴き取り方をしてもらうことで、語り手自身の語りがBさんに滞りなく受け入れてもらえるのではないか、という語り手側の意図があった。
d.語り
Bさんとの語りでも、語り出しは語り手から行われ、最初に診断名と脳性麻痺がどのような障害であるかの説明がなされた。具体的には、脳性麻痺により、細かい動作や、目で文字や物を追うことが困難であり、筋肉、特に首や肩の筋肉が緊張し、凝りやすいということが語られた。この際、Bさんは、指定された聴き取り方の中の「静かに聴く」を強く意識しており、語り手の語りに対する音声的応答はほとんどなかった。以下に示すデータはそれに続く、語り手の語りである。
カカイ:で、おもしろい話があって、あの、手の筋肉も緊張して、あっそうか、字書くときにこの伝わって肩の部分も緊張して凝りやすくなって、小学生のときに「私肩凝るんですよね」って、そのころ特別支援学級に入りながら普通級で勉強していたんで、特別支援学級の先生に言ったら、「なんでそんな年寄り臭い、ことを」
Bさん:あー
カカイ:まだ、二千、二千、一桁台だったので、多分わかんない( 笑) んだなっていう
語り手は、この肩凝りについての話題に入る前に、話の枕として「おもしろい話があって」と置いた。その意図としてBさんの笑いを誘い、Bさんや語りの場の緊張を緩和させ、語り手が語りやすいような語りの場にすることがあった。しかし、Bさんは語り手の笑ってほしいという意図は受け取りつつも、「あー」とだけ応答した。Bさんは笑えなかったのである。Bさんから期待した応答がなかったため、語り手は、昔のことであり、特別支援学級の先生もわからなかったのだろう、仕方のないことだと、その状況を揶揄しながらひとまずオチをつけて回収し、次の話題に移った。ここで語り手は、聞き手に語りへ参画することを期待して、特別支援学級の先生の理解力のなさをある種揶揄するように語ったといえるが、聞き手はその語りすらも流した。それによって語り手には、語りの不全感が残った。一方、後に聞くと、聞き手は、聞き手自身の研究の中では、他者の逆境体験を聴くなどをしていたが、普段は他者のライフストーリーを聴くことに自信がないという。その中でどのように語りを聴くべきか迷い、かろうじて聞き手ができた応答が、「あー」という語り手の揶揄に乗らず、語りに巻き込まれない安全で中立的な位置で聴き続けるというものであった。この場面において、語り手の語りと聞き手の反応は、それぞれ語りのためを意識していたものの、その意図は、すれ違い、空回りしてしまっていた。だからこそ、語り手には語りの不全感が残ったのだ。
ここから、語り手の下肢の身体障害や日常生活が語られた後、発達障害と思われる部分によってもたらされた学校での不適応感やその苦しみが語られる。しかし、それはBさんにとって語りに圧倒された苦しみがもたらされるものであり、応答ができず、沈黙することになった。語り手にも独りで語ることの苦しみがもたらされた。
その後、休憩を挟んだ。その際、互いの認知特性について語り合ったり、日頃の愚痴をこぼしたりするような雑談をした。休憩が終わると、語り手の他者との合わなさによる不適応感やその苦しみという「障害」を理解する観点として、Bさんが「話合わねえ」という言葉を提示した。そこから、語り手は、自身の過去を振り返り、「(他者と)話が合わない」のと、「(語り手が他者に話を)合わせようとして失敗する」の両方が「話合わねえ」の中身にあるのではないかと自身の理解を挙げた。そして、「変な話」と前置きした上で、高校時代、自分に対して当時嫌いだった下ネタを言ってからかう他の生徒に合わせるために、下ネタを必死に勉強したら反対に周囲に引かれてしまったと面白味も含んだ語りをした。その上で、他の生徒たちはゆるゆるで、適当に済ませているから、他の人に話を合わせられるが、自分は真面目であるからうまく人に話を合わせられないのだと語った。
それに関して、語り手は、似たようなことは、小学生のころからあったとも振り返った。他の人に合わせようとしてその場で共有されている話題について調べすぎて、結局人と話が合わずに失敗したということが改めて語られた。その語りについて、Bさんは、「今は( 笑)、これはミスったなってわかるの?」、「それはいつ気付いたの?」などと語り手に質問した。それに対し、語り手は、大学に入ってから、過去を振り返って良くなかったことに気付いたと語った。
その上で、語り手は、「人に合わせちゃうのは、でも今も、あって」と前置きして、Aさんとの語りを思い出しながら飛躍させて、1人で自分自身のことに向き合いたくないがために、少しでも好意を抱いた人に対して精神的にも、金銭的にも尽くして没頭してしまうことを語った。その語りは、Bさんにとって、急展開であったため一瞬驚きがもたらされるものの、文脈としては理解可能なものであったため、聴くことができていたと、後に振り返ってBさんは説明している。その後、Bさんは、語り手の語りを整理する。
Bさん:何だろう、恋愛できないとか言ってたよね。
カカイ:恋愛、多分、できない……
Bさん:そのできないって何?その
カカイ:不適合者だと思います。
Bさん:そういう。そっち系。
カカイ:あの明石家さんまが結婚不適合者と言うなら、僕は恋愛不適合者だと思います。
Bさん:何か、感情を抱くことができないとかじゃなくて、感情を抱くことができるけど、やり方ミスるとか、そっち系?
カカイ:多分やり方ミスって、もうやんない方がましみたいな
Bさん:そうした方が気持ち良いそのまんまの対人関係維持できるとか、そういうこと?
(このときのカカイは、このBさんの言葉に自分のことをわかってもらえているという感覚を強く持っていた)
カカイ:そうです。そうです
Bさん:で、合ってるのか
カカイ:そうです
Bさん:なるほどねー
Bさんは、語り手の「恋愛できない」という言葉を振り返り、その意味を語り手に対して質問をいくつか投げかけることで探った。その探りを入れる言葉に語り手はわかってもらえているという感覚を持った。この対話のやりとりでは、Bさんは語り手のことをわかろうとしてほしいという教示に従っており、なおかつ語り手は自身の障害をあまり意識せずにBさんと語り合うことができていた。それは、語り手に対して安心感をもたらした。
その上で、語り手は、一般論として、一度関係を深めようとしたら以前の友達の関係には戻れないのが暗黙のルールになっていると理解していることを挙げ、そのため語り手の場合、失敗を恐れて恋愛をしようと思わなくなったと語った。以下は、それに続くBさんの応答である。
Bさん:なんでそれが学習できないんだろうね
他は、他の人間関係はさー、あの何、恋愛の前とかはできてると、少なくともc大のコミュニティの中ではできてる
カカイ:あーあー
Bさん:とは思うんだけど、まあちょっと、飲み会の反省会とかは置いといて(笑)そんなに不適応起こしてるなーとは、ちょっとまあ立場が先輩って言うのはあるけど。
うーん、何か、ないなーとは思うんだけど。恋愛となると何、経験の少なさ、何、抱く感情が違う、属性?何が?
カカイ:何でしょうね。抱く感情が違うとは、僕は思わないんですよ。
Bさん:その、何?
カカイ:友達関係の延長のイメージです。
Bさん:でか、でかくなっただけ?
カカイ:でかい、でかい。
Bさん:別もん、別もんに変わったって感じじゃなくて?
カカイ:いや、うーん、関係性としては延長だと思ってて、
(中略)
Bさん:じゃあ、友達からスタートしましたってなって、ここ(前、恋人側)とここ(後ろ、友達側)のここ(真ん中)の、友達・恋人あったら、その真ん中、だよ、より後の方の、その何か未満な関係みたいな。その曖昧なときが一番楽しいみたいな(笑)まあ、よく聞く話だとは思うんだけど、ここ(前)、ここ(後ろ)で、ここ(真ん中)だったら、カカイくんここ(後ろ)だったら(笑)、何かここ、ここら辺(後ろの端)なんだろうね(笑)
カカイ:で、ここらへん(後ろの端)で、とにかくここ(前)に早く行きたいんですよね。もう
Bさん:何か走っちゃうのかな?
カカイ:走っちゃう。
早く、早く、あの、明確な関係でありたい。ちゃんと恋人という関係でありたい。
(このときのカカイは、曖昧・未満な関係の甘酸っぱさも理解はできていたが、それをヒントにして、「明確」という言葉が出てきたような気がした)
Bさんは、「なんでそれ(友達と一度関係を深めようとしたら以前の友達の関係には戻れないという暗黙のルール)が学習できないんだろうね」と語り手に問いかけた。この問いかけは、語り手の内省をもたらし、自身の語りを一旦休止することを可能にした。その上で、Bさんは、語り手の他の人間関係はある程度うまくいっているように思うと伝え、恋愛のうまくいかなさは何が他の人間関係と違うのか、経験の少なさ、抱く感情の違い、属性など、その違いとして考えられそうなものごとを挙げた。このBさんによるいわば仮説の列挙は、語り手に、ほどよく距離を置いて自身の経験を外在化させ、恋愛関係と他の人間関係との違いを考察することを可能にした。同時にここでは、Bさんが語り手の語りを聴いており、それに基づいて応答してくれているという安心感も語り手にもたらされていた。その上で、語り手は、Bさんの言葉に沿って、自身の理解を語った。また、その際に、例え話や語り手やBさんから見た他者(「よく聞く話」)の理解を引きながら語った。それを受けてBさんも、その話をBさんの視点から整理し、それに対する語り手の応答をもとに「何が走っちゃうのかな?」と問い直した。それは語
り手にとって自分の中の思考や感じていることを整理して「早く…明確な関係でありたい。ちゃんと恋人という関係でありたい」と語ることを可能にした。振り返ると、ここに来てようやく独りではなく、Bさんと共に語り手自身の「障害」について考察し、その上で語り紡ぐことができていたように感じたのだった。
6.考 察
6-1.「障害」の語りはどのような場で何をいかに語ることだったのか
Aさんとの語りは、「障害」を共に語るプロセスにおいて、「巨乳」という突然の不謹慎とも取れるワードの中に、現前し共有される「障害」が語られていった。自分を受け止めてくれる人としか付き合えない、後輩にうまく関われないというテーマにおいて、「私もそうだよ」というAさんの言葉は、単なる異常ではない「障害」をその当事者として引責しつつ、共通する経験を言葉にすることを可能にした。それは、語り手の驚きと安心感をもたらしていた。その後、先輩とは上手くいくが後輩とは上手く付き合えないという「障害」について「どうしていいかわからん」と免責しながら率直に言葉にしてみたり、恋愛関係で積極的になれず「引いちゃう」という「障害」を「(相手に)与えられるものがない」と事実とともに語ってみたりする
ことで、「もやもやする」ものとして共に語り合うことができたのだといえる。また、その中で「巨乳だったりとかしたら」と、仮想、あるいは一種の妄想ともいえるものを膨らませることを通して、不謹慎さとともに外在化させて免責し、かつ実際にはそうではない自分の「障害」を語りの場に現前化させることが可能になっていた。
Bさんとの語りは、応答のないモノローグから始まり、緊張の緩和と離脱に誘い出すもスルーされるプロセスを経たのちに、共に「障害」を考察するものへと展開していった。開始当初、応答のないモノローグが続く緊張を緩和するための場づくりとして、語り手が意図した笑いの誘いは、矢吹(2017)の言う「揶揄」の一種であったといえる。しかし聞き手は、その誘いに乗らず、静かに相槌を打つだけであった。これは、語り手に語りの不全感を残した。しかし、それでも聞き手がその聞き方のスタンスを堅持し続け、語り手が語り続けることで、矢吹(2017)の「沈黙や語りがたさ」の表明、「嘘や揶揄」を使わずに、経験や現象としての「障害」を淡々としていながらも、聞き手が受け止められる納得感のあるものとして語ることが可能になっていった。また、休憩の中で、場の構造として緊張が緩和され、語ることあるいは聴くことの責任が一旦解除された。その後、語り手は「恋愛できない」と自身の能力の問題として「障害」を引責しようと恋愛の苦手さを語った。それを受けて、Bさんは「そのできないって何?」と言葉の意味を探る問いかけをする。ここで語りの場は、語り手によるモノローグの場から、語り手と聞き手が「障害」を共に探る場へと変化したといえる。同時に、「恋愛できない」のはなぜか、と語り手の責任で抱える問題として原因を探るのではなく、「恋愛できない」という言葉の意味を問うことで「障害」を探る形へと移行している。対して、語り手は「恋愛不適合者だと思います」となお自分の異常性として引責して応じようとするが、Bさんは「そうした方が気持ち良いそのまんまの対人関係維持できるとか、そういうこと?」と食い下がって探り続けた。ここにおいて、「恋愛できない」、「恋愛不適合者」という能力の問題から「対人関係維持」という関係性、つまり状況の問題へと移行し、それは語り手の異常性を免責する契機となった。続けてBさんは、「恋愛となると何、経験の少なさ、何、抱く感情が違う、属性?何が(他の人間関係と違う)?」と問いかけ、他の人間関係と恋愛との語り手の経験の違いが何であるかを探ろうとした。この問いに語り手が応答することで、恋愛という場において語り手に何が起きているか、何が経験されているのかという現象として「障害」を語り、その理解を聞き手と共有することが可能になっていた。
6-2.新たな語りの可能性
本研究では、障害の語りから出発して「障害」の語りが浮上するような納得できる語りを紡ぐために必要なことが3点明らかになった。
1点目は、聞き手の純粋な反応や応答、問い返しを受け、そこに語り手がさらに応答していくことである。一般的には不謹慎とされる内容の語りであっても、聞き手の態度や応答によって、語りがたさは解きほぐされうる。語り手の語りに対する聞き手の純粋で率直な応答さえあれば、矢吹(2017)が挙げた「沈黙や語りがたさ、嘘」の3つを使わずとも、語り手もそこに応答することで語ることはできるのである。
2点目は、「障害」を独りではなく共に語ることである。当事者研究の理念として、「自分自身で、共に」というものがある(浦河べてるの家,2005)。この理念には、仲間と共同で研究を進めることを通して、自分自身について語ることのリスクや負担を軽減し、仲間や社会とのつながりを回復させることができるという意義がある。Bさんとの語りの前半部では、語り手が一方的に自身の障害と「障害」を語り、それを受けたBさんには圧倒感と苦しみが生まれ、応答できず、沈黙することになった。それによって、語り手にも独りで語ることの苦しみがもたらされた。一方、Aさんとの語りでの語り手による障害の症状説明以降の部分やBさんとの語りの後半部では、「障害」の語りを納得しながら共に紡ぐ展開が見られた。それは、語り手からの「障害」の語りを受けて、聴き手自身の「障害」を重ね合わせるようにして語ってみたり、あるいは語られた「障害」について一旦外在化させてまるで他人事の客体のように扱いながら、共に考察するように語ってみたりするものであった。語り手と聴き手の両者で共に「障害」を語り紡ぐことで、リスクや負担が減じられ他者と語りやすくなることにつながったのである。その際には、当事者性の不確かさがあるがゆえに、それを改めて語り手や聴き手の自分事として、当事者として、引責して語り直してみる過程も語りの中途において必要であるといえる。
3点目は、語りを発展させ、自身の社会上、生活上のうまくいかなさについて、多数派から見た異常な行動、状態ではなく、自分にもよくわからず、対処のしようもないが、そうなってしまう自分らしい不思議な現象として、自身の「障害」を語っていくことである。例えば、恋愛や先輩後輩関係でのうまくいかなさ、つまり人間関係のうまくいかなさは、その人個人の能力の問題、責任に帰されがちである。だからこそ、日常生活の中では、その「障害」を他者に語ることは許されず、沈黙を強いられる。しかし、語りの場においては、そもそも何をどうすればよいかわからないと免責されることを通して、現実の中で人間関係の相互作用として何が起きているのか、現象としての「障害」を省察し、深く語ることができる。
6-3.当事者性の不確かさを抱えつつ「障害」を語るとは
本研究では、当事者性の不確かさがある者が、自分自身のことをどのように語りだせばよいかを問いの1つにしていた。調査を通して何が明らかになっただろうか。
「障害」を語るには、前提として、語り手と聞き手の間の安心感を伴う相互応答の関係が重要であることが明らかになった。まず、語り手の問題として引責して障害を語る。すると途中、一旦立ち止まって考えさせるような問いかけやつぶやきが、聞き手からなされる。その言葉掛けは、語り手にとって驚きや不意打ちであり、第三者から見ればタブー視され、不謹慎さを感じられ、不可視化を強いられるようなものの場合もある。価値評価の対象になったり、不適切なものとして退けられたりすることもありうる。Bさんとの語りの前半部では、まさに「障害」を語りの場に現前化させることが叶わず、スルーされてしまう現実を示していたといえるだろう。しかし、相互応答の関係性では、免責や主体の解体がなされる契機も持ちうる。それは、主に語り手個人の問題として引責されるものから、人に帰責できない状況へと問題が変化することを意味する。Aさんとの場合は、語り手と聞き手の二者間で、妄想的だったり、不謹慎だったりする内容であったとしても、語られた内容とは違い実際はそううまくはいかない、現実世界での「障害」が、逆説的に語りの場に現前していた。また、Bさんとの語りの後半部でも、普段他者と語ることは許されないであろう語り手の恋愛の苦手さから出発し、それを受けてBさんが「よく聞く」多数派の持つであろう恋愛観を引き合いに出しながら語り手とともに考察することを通して、同じように逆説的に筆者自身の現実における「障害」を明確に浮かび上がらせていた。そこからさらに問いかけ、やり取りを通して語りを紡ぐことで、ある状況を背景として「障害」が生じるという因果論から、どんな出来事を経験しているか、事実として何が現前しているのか、といった帰責できない現象として「障害」が語られていく。以上の流れを通して、実際に聞き手が同じ状況に直面していなくとも、「障害」を共に語ることができる。その語りは、聞き手が語りについて想像を膨らませることで、了解可能なものであり、双方の間で共有可能なものでもある。語り手の語り、聞き手の了解、双方間での共有、そして共に「障害」を語るというプロセスを経て、語り手にも語りの納得感がもたらされるといえる。
しかし、今回の調査では、それでも語り手が何かしらの当事者(本調査では、それは脳性麻痺であった)として語りださなければ、語りを始めることはできなかった。一方で、それでも聞き手との共通性の認識、あるいは外在化や緊張の緩和による免責を通して、当事者性が不確かな中でも、語りを共に紡ぎ続けられると考えられる。
ここで明らかになった「障害」の語り方は、本稿の1章1節にて問題視していた「沈黙や語りがたさ、嘘や揶揄」といった矢吹(2017)によって見いだされた方法のいずれも使わずに、なおかつ被差別者や弱者といった否定的アイデンティティを持った主体を前提として社会に問題解決を訴えるような政治的な語りもせず、モデル・ストーリーを相対化することもせずに、他者と経験を共有して自身の「障害」を語る方法であったといえる。
7.本研究の課題
7-1.事例の集積の必要性
今回の調査の協力者は、2者とも医学的な障害への理解が深く、筆者との関係性もある程度深かった。それゆえに身体障害者、あるいは発達障害者という筆者の当事者性の一部を安心して容易に立ち上げて語りだせた可能性がある。そのため、今後は、研究協力者に依ることで筆者の当事者性を立ち上げることが難しいような協力者、例えば筆者との関係の歴史が浅く、筆者の抱える疾患について詳しく知らない人との調査を行っていく必要があると考えられる。
7-2.当事者性が不確かな中でいかに語りだすか
6章3節では、当事者性の不確かさがある者が、自分自身のことをどのように語りだせばよいかという問いに対して、本調査から明らかになったことを検討した。
石原(2020)は、当事者研究の営みも含め、何かを表象することには、その中に「死角」や「サバルタン」を生み、「第三項の排除」をもたらす可能性が伴うという。サバルタンとは、ポストコロニアリズム(注1)の中で生まれた概念であり、植民地統治などによって主流の社会から疎外され、「従属した階級」と位置付けられ、歴史的に沈黙させられてきた主体のことを指す(Young, 2003;本橋訳 2005)。
注1ポストコロニアリズム: 「資本主義の勢力によって排除され、不安定にさせられた者たち」の「文化的アイデンティティを回復する」ことを目指し、「外来の権力によって政治的・制度的に管理されている状態」といえる「植民地主義」の実態の解明を試みる思想(Young,2003;本橋訳 2005)。
第三項の排除とは、哲学者である今村仁司が社会の中での暴力や排除について思索する中で編み出した、「二項的相互性の維持のために、第三項が絶対的に排除され、…(中略)…二項対立的関係(相互性)を維持したり、あるいは二項関係が危機におちいって回復を要求したりするときには、必ず運命的に発生する社会関係の根本動学」である。そのとき、「第三項は、相互性の存立のために、つねに必ず、暴力的に抑圧され、排除され、あるいは殺害される」という(今村、1982、原著の傍点部を太字で表記)。つまり、二項対立の関係の維持や回復のために、その外部にある第三項は必ず抑圧や排除などを受け、沈黙を強いられるということである。
この抑圧や排除の対象になる危惧を抱かせるサバルタンや第三項には、6章3節で挙げた当事者性の不確かさがある人々が含まれてくると考えられる。石原(2013)は「誰もがすでに当事者」と述べていたが、自分の弱さや苦悩、問題が不明確な場合、当事者性も自明なものとしてスタートできるものではなく、当事者性の不確かさに揺らぐ者たちもまた存在するのではない
だろうか。そう考えたとき、当事者性の不確かさがある者たちが、抑圧や排除の恐れを抱えながら、なお、自分自身のことを他者に対して語りだすには、どのようにすればよいのだろうかという問いは残っている。
今回の調査では、当事者性が不確かな中でも、次第にではあるが、語りを聞き手と共に紡ぎ出し続けられるようになることは明らかになった。一方で、それでも語り手から語りだす際には、何らかの当事者性を引き受けないことには始まらないことも明らかになった。どのようにすれば、当事者性が不確かなまま、排除や抑圧に脅かされることもなく、語りだすことができるのだろうか。本研究の調査の設定として、最初は語り手が障害を語ることから始めているため、何らかの当事者性を引き受けなければならないのではないか。当事者性を引き受けずに語りだすことは可能なのか。
もしかすると、語りだしを聞き手に委ねることで、当事者性を引き受けない「障害」の語りが生じるかもしれない。ただしその際には、調査開始の前段階として、調査概要の説明や雑談を通して、共に語るための関係構築や緊張の緩和が必要になると推察される。
7-3.当事者研究との異同に関する検討
当事者として名乗れない状況の中でどのような語りができるかという問題意識の中で、調査を行ったが、本研究と当事者研究の異同は検討しきれていない。そもそも当事者研究の実践は、「自分のことは、自分がいちばんわかりにくい」(向谷地,2009)ものであるからこそ「自分のことは、自分だけで決めない」(向谷地・浦河べてるの家,2006)ようにするために、他者と共に研究を進めるというものであった。そうであれば、当事者性の不確かさのあるものは、当事者研究や語りの場において排除されないはずである。しかし、本研究では、当事者性が不確かであったとしても、何かしらの当事者性を引き受けて語りださなければ、語りを始めることは叶わなかった。無から語りを生み出すには、能動態という動詞のあり方による語り方や言語に頼るしかないのか、そこに中動態の可能性はないのか、今後調査の中で何らかの形で試行していきたい。
また、ここ数年で、性暴力などの加害・被害の問題を中動態で理解させ、被害者に当事者研究をさせて加害者に対する免責を促すなどの問題が起こっており、それが2020年になって被害者から告発された(pirosmanihanaco,2020a,2020b)。本件について、関連領域の一部の研究者や臨床家からは問題点が指摘されている(信田,2020;伊藤,2021;西井,2020など)。
もちろん、信田(2020)の言う通り、これをもとに「『当事者研究』がすべて問題だと結論付けてしまうことは早急」だろう。しかし、この一連の流れを通して、当事者研究の営みや中動態の考え方が、無自覚のうちに一部の人の中で、他者に対して暴力性や特権性をはらみ、倫理的な問題を持ちうることが明らかになった。
これは、先に挙げた石原(2020)が懸念していた、何かを表象する際に「死角」や「サバルタン」を生み、「第三項の排除」をもたらすおそれがまさに顕在化してしまった例であるといえよう。この問題は、今後当事者研究に関わる者はもちろん、何らかの当事者として学術研究を行う者すべてが常に意識すべきものだといえる。本研究では、いかに当事者や当事者研究の持つ暴力性や特権性から解き放たれ、語りや研究を進めることができるかを検討するという形で、この問題に対する応答責任を引き受けたい。この問題については、後日稿を改めて検討する。
7-4.分析方法に関する再検討と再構築の必要性
分析方法も再度検討を要する。まず、今回はなぜ語ることができたのか、あるいはできなかったのかという、語り手や聞き手によって語りがコントロール可能であるかのような能動態の前提に基づいた分析の視点が中心になってしまった。今後は、どのような経緯、文脈で語りが生起したのか、しなかったのか、展開したのか、しなかったのかという「語り」を主語に置いた中動態の考えに基づく分析、記述を模索したい。また、本研究の分析は、語り手、聞き手、その場にいない第三者、それぞれの視点を取り入れ、融合させながら行っているが、その意義が最も効果的に現れるような考察の記述がどのようにできるかについても、検討を行いたい。その上で、本稿1章3節で挙げた、誰が語るかという行為としての語りの主語も曖昧な形で、語りの場自体から語りが自然発生するように「障害」を語るとは、いかに語ることなのかを検討したい。そして、今回はプロセスレコードを用いたが、これは語っているときの語りの流れを後から振り返り、考察するものである。語りの生起と変化の過程をすべて追うためには、それに加えて語っていないとき、つまり語りの前後や研究プロセス全体においても、何を感じ、考えたのかについて記述し、再帰的に検討する必要があるだろう。
7-5.「態」への注目の不十分さ
同じく本稿1章3節では、Benveniste(2012)やそれに基づく國分(2017)、さらに発展させた熊谷(2017)や斎藤(2019)の議論を参照し、語りの場、語る際に使用する言語の(種類ではなく)形式、聞き手と語り手それぞれの語り方や聞き方、「態」に注目することによって、「障害」を語るために必要なことが解き明かされる可能性を指摘した。しかし、本稿5章や6章2節の中ではうまく描ききれたとは言えず、課題として残る。例えば、本稿では語り手と聞き手が共に探り合うことで、「障害」を語ることができると考察したが、それは「障害」を引責し、能動態として捉えて語ることができることを示したに過ぎないのではないのだろうか。それでは、中動態の形で「障害」を免責して語ることはできないのだろうか。「態」に注目した語りの検討は、今後さらに深めていくことが求められる。
7-6.記述方法に関する再検討
自分自身に関する物事の再帰的な記述の方法として、自己(オート)エスノグラフィーがある。本研究への応用可能性について検討を進めたい。
引用文献
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謝辞
調査協力いただいたAさん、Bさん、そして今回は匿名化等調査スケジュールの都合上掲載は叶いませんでしたがCさんには改めて深く感謝申し上げます。また、お名前は挙げきれませんが、筆者が不調の間、支えてくださった様々な方にも深く感謝申し上げます。この研究を続けられているのは多くの方のお力添えのおかげです。
また、当事者研究に関連して、様々な被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。当事者研究というフォーマットを用いているにもかかわらず、別稿で検討すると宣言しているとはいえ、本稿でその問題について十分に検討できなかったのは、ひとえに筆者の論考の至らなさ故です。加害の事実を黙認し、二次加害に加担していると受け取られてしまっても仕方ありません。心理臨床実践を学ぶ者としてあるまじき行為です。深くお詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした。