声。
生まれて数ヶ月ほどでなんとなく周囲のことがわかってきた私は、父や母のように話をしたかったのだが、声が出せずにもどかしい思いをした。
声を出そうとすると、どうしても泣いてしまう。
半年ほどして、ようやく泣かずに母音の単語だけを発することができるようになった頃、父や母が、私がどちらの名前を先に呼ぶか楽しみにしていることを知り、どうしたものかとあれこれ考えた。
結局、私が選んだのは「ぱんま」である。
パパとママ、それに乳のことを「まんま」と呼んでいた両親に、最大限の配慮をしたつもりだった。
残念なことにその配慮は伝わらず、どちらも「自分のことを話した」と躍起になり言い争いが起きたので、気まずくなってもう一度、今度は両方の名前を交互に呼ぶことで問題の解決を図った。
その時の両親の驚いた顔と興奮した笑顔が懐かしい。
それまで、表情や動きでしか伝えることのできなかった自分の思考が、具体的に相手に伝わることはとても素晴らしい。
私は声を得て、伝える喜びを知り、世界が大きく広がったと思った。
それから数年後、私の声は敵になっていた。
自分にも他者にも、凶器あるいは狂気となって襲い掛かった。
奇声となり、罵声となり、理詰めで問い詰める怒声となった。
頭の中に次々と溢れて来る思考のアウトプットの方法が、声と暴力しかなかったのだ。
私は思考に翻弄され、一晩中喚き続け、それでも追いつけなくなると暴力を振るい、あらゆる物を破壊した。
それは、自分の身体も同じだった。皿を割り、その破片で手足を傷つける。
その行いが正しくないことを理解しつつも、痛みによってしか思考を止めることができなかった。
思い返せばたった数行の出来事だが、当時の私には1分1秒が地獄であり、響く声はまさしく地獄の音そのものだった。
そして、私は薬漬けになり、父を失い、やがて母をも失った。
さらに数年後、声は再び私の味方になった。
適切な指導者が、凶器だった声を利器に変えてくれた。
私の声が、そして他者の声が、私の世界をどんどん広げ、深めてくれた。
それから今まで、声はずっと私の味方でいてくれる。
もう、声が私の敵になることはない。
現在、私は新たな声の出し方に挑戦している。
それが最近始めたノートであり、Xであり、その他のあらゆる発信媒体である。
正確には、それは声ではない。
だが、思考をアウトプットするためのツールとして捉えれば、それはひとつの声と言えるのではないだろうか。
そしてこの新たに手に入れた声は、私の思考を瞬時に世界に広げるだけのポテンシャルを秘めている。
使い方次第では、あらゆる富と権力を手に入れられる可能性がある。
誤った使い方をすれば、世界を破滅に向かわせる可能性もある。
それだけに、扱い方は慎重にならなくてはいけない。
はずなのだが・・・。
私から見て、「これは正しくない」と思える使い方があちこちに蔓延っている。
敵意を煽り、分断を招き、一時の報酬のために信用を失い、自分の世界をどんどん狭めるような使い方だ。
声と言うのは、コミュニケーションのためのツールとして人間に与えられたものだと思うのだが、与えてくれたであろう神(あくまで抽象的な存在としての意味。私は信仰心を持っていない。ただし、超然的な何かの存在は否定しない。)は、この現状をどのように捉えているのだろう。
今こそ、みんなが立ち上がり、それらの一部勢力に対話を通じて教えを広める時期なのではないか。
幼い日の私の前に現れた指導者のように、正しい方向へ導いてくれるような存在が、必要な時期なのではないか。
「なんということだ。同じことばを使い、一致して事に当たると、人間はこれだけのことをやすやすとやり遂げてしまう。この分だと、これからもどんなことを始めるか、わかったものではない。思ったことを何でもやってのけるに違いない。 地上へ降りて行って、彼らがそれぞれ違ったことばを話すようにしてしまおう。そうすれば、互いの意思が通じなくなるだろう。」
これは創世記の一節だが、同じようなことを、また神が思いつかないうちに、何とか人間の手で本来あるべき声を取り戻さなくてはいけない。
発信媒体がバベルの塔とならないようにしなければならない。
しかし、そういった声はなかなか当事者たちには伝わらないだろう。
どんなに優れた声も、相手が聞く耳を持たなければ意味がないのである。
こうして今日も、バベルの塔はまた一段、高くなっていく。