【インタビュー】ハルク・ホーガン完全版〜ロックンロール、猪木舌出し失神、愛嬢ブルックを語る2007
2007年5月12日、愛嬢ブルック・ホーガンの日本歌手デビューのプロモーションで来日したときのインタビューです。初出はTONE誌。
紙の雑誌はページ数などの制限があるのでいろいろカットしたりして文字数を整えますが、今回掲載するのはその前のフルレンス・ヴァージョンです。ホーガンから見た第1回IWGP決勝(猪木舌出し失神)、テリー・ファンクから全日本プロレスに誘われた話、ザ・ローリング・ストーンズ加入未遂事件、シングル『一番』のレコーディング事情、『グレムリン2』出演話など、めちゃくちゃ貴重だと思います。
ハルクは普段のトークだと「〜だブラザー」とか言いませんでした。でも彼自身の口からラッカス、ココなどのバンド名が出てきたのは震えました。
この後、ホーガン家はいろいろ大変だったわけですが、まだ楽しく話してくれています。
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●TONEマガジンからやってきました。ミュージック&カルチャーを専門に扱う雑誌で...。
H:(ページをめくりながら)ナイス・マガジンだ。ヴェリー・グッド。
●現在の新日本プロレスにはアントニオ猪木の燃える闘魂が伝承されていますが、ハルク・ホーガンのハルカスピリットはお嬢さんのブルックにどのように受け継がれているでしょうか?
H:オレが教えるべきことはほとんどなかった。なぜなら、彼女の血にハルカスピリットが流れているからだ。彼女はワーカホリックで完璧主義者であり、情熱に満ちている。目標に向かって一心不乱に進んでいくんだ。ブルックがまだ小さい頃、プロレスの試合に連れていったのがすべての始まりだったのかも知れない。3歳だか4歳だったか、レスラーが受ける大歓声を耳にして、その興奮に病みつきになったんだ。彼女の全身に鳥肌が立っていたのを覚えている。
●ブルックが生まれた1988年というと、ハルクのプロレス・キャリアはどんな状態だったでしょうか?前年の1987年3月に行われた『レッスルマニアIII』ミシガン州ポンティアック・シルヴァードーム大会は93,173人という、屋内スポーツ興行としては史上最高の記録を打ち立て、あなたはアンドレ・ザ・ジャイアントと対決していますが...。
H:『レッスルマニアIII』の後、オレはスロー・ダウンすることにしたんだ。それまでクレイジーなレスリング・ライフを過ごして消耗していたし、自分の娘が生まれるというのは人生最大のビッグ・イベントだったからな。それでTVマッチや大会場に的を絞って出場するようにしたんだ。
●ホーガン家に育って、歌手になろうと思い立つのは自然な成り行きでしたか?
B:そうね、ママはいつも歌っているし、家にはピアノやギターがあるしね。パパはよく台所でギターを弾いているわ。うちの台所にはドラム・キットもあるし、家族でキッチン・バンドを組めるぐらいなのよ。
●デビュー記者会見では影響を受けたシンガーとしてスティーヴィー・ワンダー、テディ・ペンターグラスを挙げていましたが、それはパパの趣味でしょうか?それともママ?
B:それはママね。元々ママはダンス・ミュージックが大好きで、パパと出会ったのもディスコのフロアーなのよ。
●TV番組『ホーガン・ノウズ・ベスト』でハルクはブルックにカントリーを歌うよう勧めていますが、実際に試してみましたか?
B:私はブロンドだし、カントリーっぽくも歌えるけど、あまり興味はなかったわ。リアン・ライムスみたいになれるって言ってたけど、私が理想とするタイプじゃなかった。
H:ブルックはドリー・パートンのようにも歌えるけど、それより自分のスタイルを築くことに興味があるんだ。ビジネス的観点からすると、アメリカの市場ではカントリーをやることが有利だ。メインストリームのトップ40ソングが1万回エアプレイされるとすると、カントリーのヒット・ソングは1万5千回オンエアされる。
●...そうなんですか!
H:...具体的な数字はともかく、だ。オレはビジネスを重視していたけど、彼女はそれよりも創造性を重視していたんだ。
●アルバム『アンディスカヴァード』について訊きたいのですが、ブルックは「ビューティフル・トランスフォーメーション」「ロウ・ライダー・ジーンズ」で作詞をしていますね。自らの歌詞を通じて、どのような感情を伝えようとしたのですか?
B:「ビューティフル・トランスフォーメーション」は2、3年前に書いた曲で、自分の成長について歌っているわ。"ハルク・ホーガンの娘"だということで、いつも注目に晒されてきたけど、他の女の子と同様に思春期を迎えるんだという内容よ。「ロウ・ライダー・ジーンズ」はハッピーでクレイジーな気分のときに書いたパーティー・ソングね。
●ビヨンセやジャスティン・ティンバーレイクを手がけたこともあるスコット・ストーチがプロデュースとソングライティングで関わっていますが、彼にはどんなアルバム作りを求めましたか?
B:ただ仕事を任せるのではなく、よく話し合って、私という人間を知ってもらったわ。そうすることで『アンディスカヴァード』はブルック・ホーガンという人間を世界中の人に紹介するイントロダクションになったと思う。「アバウト・アス」の歌詞には「メディアが4インチのレンズで喉の中まで覗き込んでる」っていう一節があるけど、それはまさに私の人生ずっとそうだったわ。常に"ハルク・ホーガンの娘"ということでテレビカメラが目の前にあったし、友達とはまったく異なった人生を送ってきた。他の人生は知らないし、それが私にとっては普通の日常なんだけど。
●一般市民と異なる人生を歩んできたことで、自分のメッセージがリスナーに届きづらくなる可能性もあるのでは?そこいらの女の子の場合、パパが必殺技を持っていたりしないですよね。
B:もちろんパパが有名だという点では違っているかも知れないけど、楽しくてダンスしたい気分だったり、失恋して落ち込んだりする感情は世界中の女の子誰でも経験していることだと思うわ。これからも歌う内容はボーイフレンドとケンカしたり、親と口論したり、誰もがリアルに感じる日常について歌っていきたいわね。私みたいな十代の女の子だけじゃなく、8歳から80歳の男女問わず、みんなに聴いてもらいたいわ。
●ブルックは2004年にシングル「Everything To Me」(日本未発売)でデビューしましたが、期待するほどの成果を得ることが出来ませんでした。その時はなぜうまく行かなかったのでしょうか?今回の再デビューに際して、改善したポイントはありますか?
B:別に「Everything To Me」にまずい所があったわけじゃないと思うのよ。ただあの曲をリリースした時、私はまだ準備が出来ていなかった。それにシンガーとしてのキャリアを築くための長期的なヴィジョンがなかったこともあるわね。「Everything To Me」はいい曲だったし、チャートインこそしなかったけどセールスもオンエアも悪くなかったのよ。でも成功するには、第2弾、第3弾シングルを矢継ぎ早に出して、リスナー層にインパクトを残す必要があった。それに当時はああいうスタイルの音楽をやりたかったけど、それからやりたい音楽が変化したこともあって、冷却期間を置くことにしたのよ。実際にはアルバムのレコーディングも終わっていたけど、無理して出すべきではないという結論になったわ。まだこれからの人生は長いし、ファースト・ストライクをホームランにする必要はないでしょ。
●パパもスーパー・デストロイヤー、スターリング・ゴールデンなどのリングネームを経て、ハルク・ホーガンとしてイチバンになったわけですからね!
H:その通りだ。
●ところでお父様に質問です。あなたが1984年1月、WWF世界チャンピオンになったことは、プロレスにロックンロールをもたらしました。それまでのボブ・バックランドやアイアン・シークといったチャンピオン達はロックと無縁でしたが、"ハルカマニア"によってプロレスはMTVスタイルのエンタテインメントとなっていきます。それはどの程度戦略的なもので、どの程度自然の成り行きだったのですか?
H:オレがチャンプになったことでWWFがロックンロールになっていった最大の理由は、オレが元ロック・ミュージシャンのロック・ファンで、ロックなオーラを発散していたことだろう。それと歩調を合わせたのがシンディ・ローパーとキャプテン・ルー・アルバノだった(山崎注:レスラーで「ハイスクールはダンステリア」「グーニーズはグッド・イナフ」ビデオではシンディの父親を演じている)。シンディは大のプロレス・ファンだったんだ。当時彼女のボーイフレンドだったマネージャーのデイヴ・ウォルフがオレの家の近所に住んでたんで友達になって、「いずれ何か一緒にやろうぜ」とか言っていた。そんな関係にヴィンス・マクマホンJrが乗って、80年代のレッスルマニア路線が始まったんだ。当時のレスラーはただリングに上がって試合をするだけだったが、オレは観客に向かってアピールしたり、ポーズをとって盛り上げるようにした。ステージ上のロック・スターがするようにね。そしてヴィンスはロック界の大物たちをリングでパフォーマンスさせたり、両者の融合が始まったんだ。まさにグッド・タイミングだった。当時はまだ衛星放送もインターネットもなく、娯楽の選択肢も今ほど多くなかった。そんな時、ロックとプロレスという二大エンタテインメントが手を組んだんだから最強だった。
●あなた自身も元ロック・バンドでベースを弾いていたそうですが、どんなバンドでプレイしていたのですか?
H:いくつも無名バンドでやっていたよ。ラッカス、ココ...でも、どれもディールを結ぶには至らなかった。
●影響を受けたベーシストは?
H:スタンリー・クラークだな。彼のレコードにあわせてベースの練習をしたけど、まったくコピー出来なかった。彼のテクニックには到底敵わなかったよ。それに当時オレはフレットレスのベースを弾いていたから、スタンリーとはスタイルがまったく異なっていたんだ。
●サザン・ロック・バンドのブラック・オーク・アーカンソーのオーディションを受けたことがあるという噂は本当ですか?
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