インド・カシミールの歴史 (ラージャタランギニー)#3-8
186. 「しかし、まさに、詩人の詩的な言葉で、私的に想起したことがある。いま、王がいなくなって、家臣が代わりを望んでいるカシミールの盆地がある」
187. 「これだけの器を持つ彼のために、これを機会として、その地を、私が与えて、他の地の守護者に力があっても、これを認めず、他の者に就かせないようにしよう」
188. そう考えると、決心して、すばやく、夜の刻限に、主は、こっそりと、遣いの者たちを、カシミールの町衆の元に、申しつけて送った。
189. 使者たちに託した文面には「あなたたちに、私の意見を指示する。母の庇護(mātṛgupta)という者を、この国に、何も考えることなく、王位に就けなさい」
190. そして、使者たちが去ってしまうと、自分の指示を書面に落として、地上の主は、今日という夜の残りで、なすべきことをなし終えたと満足して、過ごした。
191. 一方、母の庇護(mātṛgupta)は、人の守護者との親密な会話にも関わらず、実りがなかったと、考えて、得られるものの望みを失って、憑き物が落ちたようになった。
192. 心の内では「なすべきことをなして、今日、鎮まった心で死んでいくとしても、仕様もない望みをあきらめることができて、いまは、幸せだと思う」
193. 「私が従うべきお方を探して、方々を歩き回って、誰かいないかと思ったときに、人々の噂に頼って、出仕する相手として、彼を選んでしまった」
194. 「さわやかな風を食べて、這って歩く蛇たちは、食ぶ者(bhogin)と呼ばれ、ブンブンと歌うような黒い蜂から、身を守るように広い耳をはためく象たちは、歌から生まれる者(gaja)と言われ、そしてまた、内部に貯め込んだ熱で成長するプロソピスの木は、火を鎮めるさやの木(śamī)という名になると、人々がいうように、思いのたけを正直に話しても、すべてのことは、変化して伝わるものだ」
195. 「そうだとしても、あの方の元に、誰が近づく方法を知っていようか、幸運の女神が愛情を持って寄り添う、王によってつくられた、愛妾が住む王宮に、」
196. 「どんな悪事も打ち払うような、汚れのないこの地上の主に、私の不純な心は、非難されて、吉兆は閉ざされてしまった」
197. 「宝石のきらめく光が、散らばるように満ちた大きな波が、木々を揺らす風によって、湖に立っても、岸辺に寄せるのを遮られるのならば、出世を願った者たちが、運命によって反対を受ければ、わずかな贈り物でさえ、創造主が贈ってくれることはないだろう」
198. 「出世という、果実を貪欲に、褒美と望む王の家臣たち、しかしそれは、主人の、厳しい困難を超えなければ、実を結ばないものだ」
199. 「獣類の主シヴァの、足下というすぐそばにいる者たちであっても、さっさと手に入るのは、灰しかない。しかし、そのシヴァが乗る聖牛の、輝きを集めた金を手にしても、常に彼らが幸運であるとは限らない」
200. 「どう考えても、何かの咎が私にあると思えないのに、この、人の守護は、私の精勤を知りながら、無視なさるのだろうか」
201. 「もしかすると、ほかの者に軽んじられている者が、近くに仕えて、主の後に付き従っていても、褒美を得られることがないのだろうか」
202. 「数えきれない苦しみの中に常に曝される水も、空に昇って雨雲となり、雨となって地に降り、波打つ川の渦に受け入れられると、丸められて、やがては、きらびやかな真珠の宝石となり、水の雫が集まれば海となるのだから、賢い輝きを持ちながら、取るに足らない米粒のようであっても、大部分の者に注意を払われれば、それが小さなものであっても、主人たちの賞讃を得ることだろうに」
203. このことを考え併せて、王が、自らそばに仕えるような、尊敬に値しない者だったのだと、真実を見通す者でありながら、落胆のあまり、その知性も暗くなってしまった。
204. 夜が明けて、あたりが明るくなると、人の守護は、思いがけなくお目見えして、母の庇護(mātṛgupta)をここに呼びなさい、と門番に命じた。
205. そして、駆けつけてきた、家令たちに、連れられて、王宮に入ると、彼は、地上を抱く者のそばへと、望みを捨てた者のように前に進み出た。
206. 彼に拝謁を受けると、主は、早速にと、眉を上げて合図をすると、書面を、書記の役人に運ばせた。
207. 王自ら詩人に言った。「さて、カシミールがどこにあるか、お前は知っているか?そこに行って、長官たちに、この命令書を渡しなさい」
208. 詩人は宣誓して、書面の内容を道中で話した場合には、その身を以て償いとすることになり、その条件に細心の注意を払い、常に忘れてはならないとされた。
209. 大王の内奥の思いを思いやれず、この命令に苦しみ訝しんで、炎に燃やされるような思いがした彼は、それが、宝石のつぼみが光っているのだとは知らずにいた。
210. 「仰せられたとおり、そのとおりに」と言って、母の庇護(mātṛgupta)が出発すると、以前のように慎みを取り戻した王は、そこにいる者たちを呼んで、ささやいた。