インド・カシミールの歴史 (ラージャタランギニー)#1-8
203. そこにある、王の庭の一つでは、真白に澄んだ甘い水が流れ込む湖があり、そこに、耳福(suśravas)という名前のナーガの棲家があった。
204. あるとき、遠くから旅してきて、疲労した若者が、真昼の暑さに、日陰を求めて、この湖の岸辺に、この、枝分かれ(viśākha)という名前の再生族が休んだ。
205. そこにある木陰の地面で、足と手を休め、そよぐ風に疲れを冷ますと、静かに湖に沐浴し、その水を、手ずから飲むと、麦飯を食べ始めた。
206. 彼が麦飯を両手に取って、湖岸をゆっくりと歩いていた目の前のハンサ鳥たちに耳をそばだてると、アンクレットの鳴らす音が聞こえてきた。
207. すると、花草とつる草が茂る木陰から、目の前に現れたのは、藍色(ニーラ)のかさねを着た、くりくりとした鹿のような眼を持つ、二人の乙女であった。
208. イヤリングは睡蓮の色のルビーでできており、水から出た蓮の茎がたわむように揺れて体に触れ、心地よく輝く白い目尻には、細く黒いアイラッシュが引かれていた。
209. 動きを奪う目の動きによって、ゆっくりと揺らす風が動揺を誘い、そのかさねのすそは、肩に結びつけられて、幸運の旗印の姿をしたスカーフのように、はためいていた。
210. 二人が、しるしにウサギのある月のように輝く顔で、静かに近づいてくるのを見ると、食事の手を止めて、しばらくは、恥ずかしさに身動きできないでいた。
211. 岸辺の草むらにあるさやエンドウを食べている、水に咲く蓮の目をした二人を前にして、再び見ようとした彼の目は、忙しなく動いた。
212. 「美しい姿でありながら、あぁ、このようにこんなものを食べているとは」そう考えた彼は、憐みで目を濡らし、恭しく近づくと二人に麦飯を食べさせた。
213. そして、木の葉を集めて、昔からある漏斗の形にコップをつくると、二人がが飲み物として飲めるように、その湖の澄み切って冴え冴えとした水を、運んだ。
214. 水を口に含み、祓い清めた寝椅子に座ったところを、彼は、花没薬の木の葉の柄を持って扇ぎながら、言った。
215. 「あなたがた二人の女性に、前世の功徳があったことによるものでしょうか、お目にかかる機会を得ました。賢者には相応しくない無作法ですが、この者がお尋ねしてもよろしいでしょうか」
216. 「幸運に導かれたお二人、こよない美しさで飾り付けている一族のお方が、こうして、心病んだ様子で、味気ないものを食べておられるのはどうしたことでしょうか」
217. 女性の一方が彼に言った。「私たちは、苦しみに傷ついた耳福(suśravas)の娘二人です。口福となる食べ物を得られないので、このような食べ物しかないのです」
218. 「父は、天空を駆ける者たちのインドラに、私たちを嫁がせようと望んでいます。私の名は満腹(irāvatī)、そして、年の若いのは妹の、月の絵姿(candralekhā)です」
219. 再び、再生族が呼びかけた「このように何もない貧しい状態に、どうして、あなた方はいるのでしょうか」彼に尋ねられた二人の女性は、「私たちの父が理由を教えるでしょう」
220. 「空が高くなる初夏六月の、欠け行く半月の十二日目にある、タクシャカの祭礼の日に、そこへ行けば、結った髪から水を滴らせている私たちに、きっとあなたは気づくでしょう」
221. 「あなたは私たち二人が、そのとき、父のそばにいるのを見ることでしょう」そう言うと、フードを輝かせた蛇王の娘たちは、瞬く間に視界から消えた。
222. ときが来て、出かけることにした彼は、踊り子や遊行詩人が群れ集まって、それを見る人々が埋め尽くしている中を、大騒ぎの大祭に巡礼した。
223. 再生族の彼でさえ、好奇心に駆られてそぞろ歩いたが、色鮮やかな舞台に行くとすぐ、娘たちに言われたしるしでそれと知って、ナーガの元に向かった。
224. 傍らにいる二人の娘に、事前に知らされていた、この名代のナーガは、再生族の生まれの彼を喜んで、自ら出迎えた。
225. そして、語らう中の各所で、不幸の原因を尋ねられると、この再生族の生まれの者に、息を吸い込む蛇である、この父は、息を引く音を出してため息をついて、言った。
226. 「自分を知り、誇り高く、相応と不相応を知る賢者たちが、神への信心を語る者よ、望まず食事を得られないことの、不幸を秘密にするのは、相応の理由がある」
227. 「他人の苦しみに耳を傾ければ、生まれつき有徳の生まれの者は、それを助ける能力のなさに、心を痛めることになる」
228. 「自分のふるまいを大したものと考えて、心を輝きで照らし、憐みを言うことで、飾りながら陰口をたたき、狭量な心に似つかわしく、賞讃を心に飲み込んで自分を安らげる。唾棄すべき策略にこだわって語り、災難に耐えろと言うのを聞けば、傷に塩を塗り込むように、不幸をさらに痛ませる。庶民の語プラークリットを話す卑しい者たちは」
229. 「だから、訳が分かっている者たちの人生は、自分の心の内に、良いことも良くないことも、長い間掛けて燃やし、火葬の薪に点く火で、最後を迎えるものだ」
230. 「どうして、自分の身の内に秘めた不幸が、外から見られるだろうか?小さな頃から付き従ってきた子供が、もし、その不幸を明らかにしなかったら」
231. 「そして、この二人の子供が、三日月の夜の暁のように、真実を明るみに出したので、あなたの前で、隠し通すことは、私にとっても相応しいことではない」
232. 「あなたは、私が教えたことを、ご自身の誠実な性格によって、わずかでも苦しみが幸福に変わるようにしてほしい、もし、できるならば」
233. 「あの木の葉の落ちた木の下に、頭を剃って髷を残した行者が勤行しているのが見えるだろう。あの者が穀物畑を見張っているので、私たちは近づくことができないでいる」
234. 「食べるのを禁じる呪文によって、ナーガは生の食物を食べられないし、あの者もまた食べない、このことわりによって、私たちは打ちのめされている」
235. 「彼が、回りを見張っている限り、果実を見つけても、これを手にして、食べることは、とても強い吾輩にもできないことであり、斃れた者が川の水を飲めないもののようだ」
236. 「あなたが行動して、この信心深い学僧が、禁を破ることができれば、それに相応しいお返しとして、恩恵をもたらすことを、吾輩は分かっている」
237. 「仰せの通りに」とナーガに言うと、努力することにすぐれた再生族は、昼となく夜となく、穀物畑を見張る者を欺く方法を、考えた。
238. こっそりと、行者が外に出たすきに、耕作地の小屋の中の部屋に体を入れると、調理された食物を置いた皿の中に、生の食物を投げ入れた。
239. これを行者が食べた瞬間、すばやく現れた、この蛇の王は、雹となって降る雨のように、実った木の実をたくさん、さらっていった。
240. ナーガの元から貧困は立ち去ったので、彼は湖の近くに戻ると、彼を助けた再生族を、自らが生まれた土地へと、次の日に、連れて行った。
241. 彼はそこで、父の命令を受けた乙女二人に、尊敬を以て迎えられ、不死をもたらす聖なる薬草や、食べ物によって、来る日も来る日も、満足を得ていた。
242. 時が経ったので、みんなに別れを告げて、自らの故郷に戻るにあたって、約束されていた贈り物として、ナーガに月の絵姿(candralekhā)との、結婚を願った。
243. 親戚になるには釣り合わないものの、彼に恩義を感じて、感謝を隠さず、贈り物として、腕で進む蛇の王は、娘と財宝とを分け与えた。
244. こうして、ナーガに贈られた、大きな富を得て、この再生族に生まれた者は、人(nara)の都で、そのときどきに、祭礼を盛大に行っていた。