嘉納治五郎「一般の修行者に形の練習を勧める」
柔道の創始者である嘉納治五郎は、柔道の修行方法は講義、問答、乱取、形の4つから成り立つとしています。このnoteでは、その中でも現在あまり重視されることのなくった形の練習の重要性を、嘉納師範が自ら説いている下記の文献を紹介します。
嘉納治五郎、「一般の修行者に形の練習を勧める」、『有効の活動』第7巻、第11号、pp.2-6、1921年 (上記のリンク先の内容を閲覧するためにはアカウント登録とログインが必要です(無料)。)
100年以上前の文献ですが、当時から形を練習する者や形の指導者が少ないといった現代と共通する課題があったことが伺えます。柔道を学ぶ人が形や、形を学ぶ意義への理解を深めるためにも、今なお広く読まれるべき内容です。上のリンク先から原文が読めますが、現在とは異なる文字で多く用いられており、また表現も古く読みにくい箇所が多くあるため、全文の現代語訳を用意しました。
形を学ぶ意義と、まず学ぶべき形についての要約を示した後に、全文の現代語訳、および現代にあわせて表記を改めた原文の両方を掲載しています。
◯なぜ形を学ぶのか?
嘉納師範は形を学ぶ意義について真剣勝負の練習と体育面での補完という二つの理由を挙げています。一つは、突き、蹴りといった打撃や、刀で斬る、銃で発砲するなどの真剣勝負におけるすべての技と、それを制するための練習をするためです。乱取ではケガをしないように危険な技は禁止されているので、そういった危険な技を用いる真剣勝負の面での練習は、形でないとできないと言っています。また、全身運動のように見える乱取も緻密に考察すると運動に偏りがあるので、形を学ぶことによって乱取における体育面での欠陥を補うことができるとしています。
◯どの形から学ぶべきか?
嘉納師範は、初心者がまず学ぶべき形として柔の形を挙げています。その主な理由として、まず、柔道の本質である「相手の力に順応して勝ちを制する」という理屈を理解しやすいこと、次に、投げられることもなく静かな運動であるから、初心者でも習いやすいことという二つを挙げています。また平服のままでどこでも練習できるのも、柔の形を学ぶ際の利点です。
以下が文献の全訳および
現代語訳:
「一般の修行者に形の練習を勧める」
今日は乱取ばかり盛んにやる
柔道の修行は、一面には講義・問答により、一面には乱取・形によるのであるということは、いつも説いていることではあるが、今日の実際は、乱取以外の方面は比較的なおざりにされている。将来、講義・問答も、形も、乱取の修行と並び行われるようにしたいと思う。講義は技の説明から勝負上の理論、駆け引き、精神修養の方法、勝負の理論を人生百般のことに応用する仕方など、その範囲はとても広いので、修行者の階級に応じて種類があるべきである。第一に講義が必要であるが、講義だけで実地の練習をしなければ、身体の鍛錬もできず、勝負上の本当の意味もわからないので、乱取は多いに必要である。しかし、単に講義を聞き、練習をしただけでは、徹底して理解し納得することは難しい。そこで、問答によって修行者が相互に理解を深める機会を得るのである。それらのことはいずれも必要であるが、一方で形というものも軽視してはならない。昔は乱取はほとんど行われず、もっぱら形を修行したものである。乱取が盛んになったのは、明治維新前より遠いことではない。以前に形ばかりやっていたのが、なぜ乱取を盛んにするようになったかというと、形はあらかじめ順序が決まっているから、身体的にも精神的にも、臨機応変の動きをするような練習ができない。また身体の鍛錬においても、運動の種類が決まっているから、乱取のように、多くの種類の筋肉をまんべんなく働かせる機会がない。それゆえに、形だけの修行では、真剣勝負で本当に強い人はできにくい。また、形より乱取の方が面白味が多い。ことに、維新後に教授法が進んで、怪我もなくなり、格別苦痛を感じることなく修行ができるようになったので、ますます乱取が流行するようになった。しかし、物事は一利があれば一害が伴うもので、形が廃れたため、柔道のある一面はほとんど忘れられてしまった。元来、柔道には勝負という一面がある以上は、(刀で)斬ること、(拳で)突くこと、蹴ること、すべてを使って相手を殺したり、向かってくる相手を制御するといった方法の研究も怠ってはならない。そうであるので、乱取では、すべて危険なことは禁じてあるから、そういう(命がけの真剣勝負という)面での練習は、形ではじめてできるのである。また乱取では、運動の種類がとても多く、ほとんどすべてあるように見えるが、緻密に考察してみると、まだある種類の運動を欠くとか、ある種類に偏っているというような傾向もある。そこで、これを補うために、乱取に加えて形をやらせたいと思うのである。形を適当に加えることによって、柔道の勝負の面の練習も遺憾なくでき、体育の面でも欠陥がなくなる次第である。
形を練習する順序
そうであれば、どのような形をどのような順序で練習すればよいかというと、まず柔の形から始めるのが適当だろう。将来は、色々と新しい形もできるだろうが、今日では二つの理由で柔の形を最初に学ぶべきと言えるだろう。第一に、この形は柔道の最も大切な面である「相手の力に順応して勝ちを制する」という理屈を理解するのに都合がよい。次に、投げられることもなく、かつ静かな運動であるから、初心者でも習いやすい。柔の形の次は、投の形を学ぶのが順序として適切だろう。投の形で投勝負の仕方が何もかもわかるという訳ではないが、投の形の理論と実際に精通していれば、投勝負の大体の意味合いを理解し納得することができる。乱取は、最初は投勝負に重きを置くべきであるから、どうしてもそれが順序である。その次は固の形である。投の練習が一通りできた上は、抑技、絞技、関節技も追々学ばなければならない。これらも形を習っただけでは十分であるとはいえないけれど、大体の意味合いはわかるから、段階とより上級の研究に進んで行くことができる。その次には、極の形を学ぶのが順序である。極の形の中には、乱取に応用できないものがいくつもあるけれど、真剣勝負では投、固、だけでなく、打つこと突くこと蹴ることはもちろん、場合によっては(刀で)斬ることも、(銃を)発砲することもある。極の形では、これらのことをどれもこれも教える訳ではないが、そこで学んだことを応用すれば、大体のことはわかるように技を組み立ててあるから、柔道の全体を学ぶ上には、是非この種類の形も必要である。これらの他に、今日まで講道館で教えてきた形といえば五の形、古式の形、剛の形などである。五の形は技の一つ一つが深い意味を含蓄していて、よく味わって見れば面白味もあるのであるが、今日はまだ完成していないのである。いつの日か、技数も増え、またある部分は他の形と結びついて、今日の組み合わせは変わる運命だろうとは思う。だからこれは、有志の者は練習して差し支えのないことはもちろんであるが、今日の講道館柔道として必ずしも学ばなくともよいのである。古式の形は起倒流の竹中派に伝えられた形をそのまま伝えたものである。これは柔道の勝負上の高尚な意味合いを理解させるため、また、柔道が美術に移って行く経路を示す上で極めて適当なものであるから、今日昔のままに伝えているのである。しかし、これも講道館柔道の本体でないから、必ずしも学ばなければならないということではない。剛の形、ある時は剛柔の形と称して、以前に教えたことのある形であるが、まだ研究が十分でなく、十本作った中、三四本は何か気に入らなかったから、後で考え直そうと思ってそのままになっているのである。この形は、最初は互いに力を入れて押し合ったり、引き合ったり、ねじり合ったりして対抗し、最終的にはその力に順応して勝ちを制する仕組みである。将来はこの形も完成して講道館で教えようと思っているが、今日は上述のように、未完成であるから学んでも、学ばなくてもどうでもよいのである。
形は教師がなくとも学べる
これらの形の他に、相手を要せず、単独で練習する当身の形がある。これは、これまでは道場ではあまり教えたことはないが、その単独でできるということと、柔の形のように平服のままで座敷ででき、往来ででも、どこででもできるという訳で、また同時に、老若男女の別なく誰にでも適するというものであるから、広く行われるようにしたいと思う。形は、若い者には乱取で学べないところを補うという意味において、年を取った者には乱取は運動が激烈過ぎるという理由において、奨励したいと思う。これまでも、形は奨励する方針であったが、なにぶん形は相当の年月苦しまないと本当には理解できない。したがって、乱取ほど面白味がない。そういう訳で、形を教えることができる者が少ない。誰にでも習えるわけではないということから、つい億劫になって、あまりやらなくなったのである。将来は講道館においても形の練習が優先されるように便宜を図るつもりなので、修行者においても、従来より一層多く形の修行を志してもらいたいと思う。十分な教師がいない場合は、柔道会の雑誌を便りにして、自分たちで仲間をつくって練習をしてもできないことはない。一通りの順序が分かっていれば、仮に間違って覚えていても、それを直すことは容易である。私は、このことを切に希望する。
現代にあわせて表記をあらためた原文:
「一般の修行者に形の練習を勧める」
今日は乱取ばかり盛んにやる
柔道の修行は、一面には講義問答により、一面には乱取形によるのであるということは、毎々説いていることではあるが、今日の実際は、乱取以外の方面は比較的閑却されている。将来講義問答も、形も、乱取の修行と並び行われるようにしたいと思う。講義は業の説明から勝負上の理論、駆け引き、精神修養の方法、勝負の理論を人生百般のことに応用する仕方等、その範囲は甚だ広いのであって、修行者の階級に応じて色々の種類があるべきである。第一次に講義が必要であるが、講義ばかりで実地の練習をしなければ、身体の鍛錬もできず、勝負上の本当の意味も分からぬから、乱取は多いに必要である。しかし、単に講義を聞き、練習をしただけでは、徹底した了解ができ難い。そこで、問答ということによって修行者相互に練る機会を得る。それらのことはいずれも必要であるが、また形というものも等閑に附することはできぬ。昔は乱取はほとんど行われず、もっぱら形を修行したものである。乱取が盛んになったのは、維新前より遠いことではない。以前に形ばかりやっていたのが、なぜ乱取を盛んにするようになったかというに、形はあらかじめ順序が決まっているから、身体的にも精神的にも、臨機応変の働きをなさしむるように練習することができぬ。また身体の鍛錬においても、運動の種類が決まっているから、乱取のように、所有種類の筋肉を働かせる機会がない。それゆえに、形ばかりの修行では、真剣勝負で本当に強い人はでき難い。また、形より乱取の方が面白味が多い。ことに、維新後教授法が進んで、怪我もなくなれば、格別苦痛を感ぜずに修行ができるようになったから、ますます乱取が流行するようになった。しかし、物には一利あれば一害がこれに伴うもので、形が廃ったため、柔道のある一方面はほとんど忘れられたようになって来た。元来、柔道には勝負という一面がある以上は、切ることも、突くことも、蹴ることも、すべて対手を殺すとか、制御するとかの方法の研究も怠ってはならぬ。しかるに、乱取では、すべて危険なことは禁じてあるから、そういう方面の練習は、形を待って始めてできるのである。また乱取においては、運動の種類ははなはだ多く、ほとんどすべてをつくしているような観があるが、緻密に考察してみると、まだある種類の運動を欠くとか、ある種類に偏しているというような嫌いもある。そこで、これを補うために、形を乱取に加えてやらせたいと思うのである。形を適当に加味する時は、柔道の勝負の方面も遺憾なくでき、体育の方面も欠陥がなくなる次第である。
形を練習する順序
さらばいかなる形をいかなる順序に練習すればよいかというに、まず柔の形から始めるのが適当である。将来は、種々新しい形もできるであろうが、今日では柔の形が二つの理由によって最初に学ぶべきものであると思う。第一に、この形は柔道の最も大切な方面である対手の力に順応して勝ちを制するという理屈を理解せしむるに都合がよい。次に、投げられることもなく、かつ静かな運動であるから、初心者に習いやすい。それからその次は、投の形を学ぶのが順序であろうと思う。投の形で投勝負の仕方が何もかも分かるという訳ではないが、投の形の理論と実際に通暁していれば、投勝負の大体の意味合いを了解することができる。乱取は、最初は投勝負に重きを置くべきであるから、どうしてもそれが順序である。その次は固の形である。投の練習が一通りできた上は、抑技、絞技、関節技も追々学ばなければならぬ。これらも形を習っただけでは十分であるとはいわれないけれども、大体の意味合いは分かるから、段々それ以上のことの研究に進んで行くことができる。その次には、極の形を学ぶのが順序である。極の形の中には、乱取に応用できぬのがいくつもあるけれども、真剣勝負では投、固、だけでなく、打つこと突くこと蹴ることはもちろん、場合によっては斬ることも、発砲することもある。極の形では、これらのことをどれもこれも教える訳ではないが、その学んだことを応用すれば、大体のことは分かるだけに仕組んであるから、柔道の全体を学ぶ上には、是非この種類の形も必要である。これらの他に、今日まで講道館で教えきった形といえば五の形、古式の形、剛の形等である。五の形はおのおの深い意味を含蓄していて、よく味わって見れば面白味もあるのであるが、今日はまだ完成していないのである。他日なお数も増し、ある部分は外の形に結びついて、今日の組み合わせは変わる運命を有っているとは思う。だからこれは、有志の者は練習して差し支えのないことはもちろんであるが、今日の講道館柔道として必ずしも学ばなくともよいのである。古式の形は起倒流の竹中派に伝えられた形をそのまま伝えたものである。これは柔道の勝負上の高尚なる意味合いを理解せしむるため、また、柔道が美術に移って行く経路を示す上に極めて適当のものであるから、今日昔のままに伝えているのである。しかし、これも講道館柔道の本体でないから、必ずしも学ばなければならぬのではない。剛の形、ある時は剛柔の形ととなえて、以前に教えたことのある形であるが、まだ研究が十分でなく、十本作った中、三四本は何分にも気に入らなかったから、追って考え直そうと思ってそのままになっているのである。この形は、最初は互いに力を入れて押し合ったり、引き合ったり、ねじり合ったりして対抗し、ついにその力に順応して勝ちを制する仕組みである。将来はこの形も完成して講道館で教えようと思っているが、今日は上述のように、未製品であるから学んでも、学ばなくてもどうでもよいのである。
形は教師がなくとも学べる
これらの外に、対手を要せず、単独で練習する当身の形がある。これは、これまでは道場ではあまり教えたことはないが、その単独でできるということと、柔の形のように平服のままで座敷ででき、往来ででも、どこででもできるという訳で、また同時に、老若男女の別なく誰にでも適するというものであるから、広く行われるようにしたいと思う。形は、若いものには乱取の及ばざる処を補うという意味において、年取ったものには乱取は運動が激烈過ぎるという理由において、奨励したいと思う。従来とても、形は奨励する方針であったが、なにぶん形は相当の年月苦しまぬと本当に分からぬ。したがって、乱取ほど面白味がない。そういう訳で、形を教え得るものが少ない。誰にでも習えぬということから、つい億劫になって、あまりやらなくなったのである。将来は講道館においても形の練習場になるべく便宜を与えるつもりであるから、修行者においても、従来より一層多くその方面の修行に志してもらいたいと思う。十分の教師の得られぬ場合は、柔道会の雑誌を便りにして、自分の同士で練習してもできぬことはない。一通りの順序が分かっていれば、よしや間違って覚えていても、それを直すことは容易である。予はこのことを切に希望する。