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戸籍より前を妄想してみた

日本の戸籍制度はとても優秀だ。
戸籍に登場する人物の人生が、事項欄を読めば見えてくる。

出生日、出生届けを出した人の名前。出生届けのタイミング。
親の分家や、自分の分家。
家督相続や、結婚、離婚、子供の出生、子供の死亡。
本籍移転、養子縁組、養子離縁等々。

本当に様々な人間模様が描かれており、ここに戸籍を一とする人々の情報が書かれている為。ある程度パズルの様に、読み進めていけば『戸籍が存在する時代の家庭事情』が浮かび上がってくる。

しかし、日本の戸籍は明治19年より古い戸籍は事実上存在しない。
※壬申戸籍や、宗門人別改帳などは一般的では無いため

そこから古い情報を得る為には、宗門人別改帳や墓。
そして、過去帳などから名前や年齢を得るのみだ。

地域の古文書などに、家庭の事情が書かれていない限りは言い伝えや日記などが残っていない限り計り知る事すら出来ない。

多角的に、情報を集めていくことでジグソーパズルの様に先祖の事を予測出来る状態になる。ということで、幕末~明治19年の戸籍が出来上がるまでの40年ほどを妄想して見たいと思う。

良かったらお付き合いいただけると、嬉しい。

私の先祖は、宮大工だったらしい。
といっても、宮大工だった方まで到達するには悠に200年ほど遡らねばならない。とある国宝に指定されている、五重塔を作る際に江戸幕府が近隣の村々から駆り出した宮大工の中に、我が先祖もいたということらしい。

彼は地元では有名な宮大工。
江戸藩邸の修繕や、藩邸の修繕、近隣の村々で寺社仏閣を建てるといえば、基本的に先祖が建てるという状態だったそうだ。

宮大工の家というのは、宮大工だけで仕事が出来ると言うわけではなかった。寺社仏閣というのは、基本『釘』を使うことはしない。
建材に凹凸を付け、それを組むことで建物を作る。

だからこそ、そこら辺に転がっている木材を使うことが出来なかった。
弱い部分があれば、組んだ木材ごと割れたら崩壊の危機もあるからだ。
それ故、宮大工を核として職人集団を身内で結成しており。
皆、同じ作業場兼住宅に住み。
山仕事で木を切り出す物、切り出した木材を板に加工するもの(木挽き)ななど。関連する職人の力が集結して、始めて宮大工の技量が完成するというものらしい。

過去帳や墓から推定すると、私の生家と直接関係のある先祖は、天保期に宮大工の家から分家。宮大工を支える職人の1人に名を連ねていたらしい。

安政の江戸地震では、本家に当たる宮大工が江戸藩邸の修繕に駆り出されており。先祖も、江戸まで一緒に伴われていったことだろう。

そして、ご維新が起き。
お抱え宮大工として働いていた、藩が無くなり。
それぞれに、新しい時代を生き抜く為に活路を見いだして行ったのだろう。

当然、宮大工をトップとする職人集団は解散。
皆、それぞれの自宅を持ち家族と暮らすようになったそうだ。

そんな中、長男は昔からの家業である山仕事(木挽き)をつづけ。
二男以下家族は、自家で所有していた山地を開拓し茶畑とし。
茶農家に変身した。

その後、長男夫婦は、木挽きの技術を生かせる町場に家族だけで出ていった。という流れになったらしい。

明治元年の時点で、家族の年齢は明治19年式から推測すると。
父 くろえもん  47歳
妻 はつ     45歳

長男 つねきち  26歳
二男 やすえもん 21歳
三男 ふくまつ  10歳

既に、くろえもんの父は9年前に、母は3年前に他界している。
長男は26歳だが、3年後に9歳年下の妻を娶った。

維新で、生活や経済状況にも大きな変化があり。
つねきちの結婚も遅れたのでは無いだろうか。

二男と三男の間が、大きく離れていることから。
間に数人子供がいると考えて良いだろう。
戸籍を見ても、どこで繋がっているか分からない親戚が数軒あり。
多分、二男と三男の間に数人が存在した可能性がありそうだ。

この子供の年齢を考えると。
17歳の長女と、15歳の二女くらいいるかも知れない。
ヘタすると、12歳の三女もいてもおかしくない。
妄想は広がっていく。

そんな状態での明治初期から、戸籍が出来るまでの19年間。
何があったのか、妄想してみた。

この期間、1番大きな出来事は、度々村を襲った虎狼痢(コレラ)だ。

郷土史の情報だと、何回か流行があったらしい。
家庭内で1人罹患すれば、家族も罹患。
家庭で何人も死者を出すこともあったらしい。※郷土史より

先祖の住む村にも、数回の流行があったという。
明治12年の流行の際は、本家筋で働き盛りの兄弟が亡くなっている。
同時期に、我が家の戸主くろえもん(50代後半)も亡くなっている。

普通に考えれば親戚で家も近い。
接点があって、感染したのだろう。

その昔、墓は山の上にあった。40年くらい前に共同墓地に改葬。
私も、薄らだが山の上の墓地を覚えている。

先祖代々の墓とは別に、少し離れた場所に土を盛って石を置いただけの粗末な墓が並んでいた。花立てが無ければ、見落としてしまう作りだ。

祖父曰く「さきさん」と「その子供達の墓」とのことで。
可哀想だから、こっちも拝んでやってくれ。と祖父に言われた。

大人になって、なぜ墓が離れていたのか謎が解けた。
母方の祖父が言うには、墓は家の裏にある事が多い。
伝染病で亡くなった人は家から離して埋葬する。
土葬なので、井戸に遺体からの影響が出るのを嫌った為だろうときいた。

やすえもんの孫に当たる、祖父が「かわいそうな人の墓」と知っている年代と考えれば明治時代だろう。明治12年コレラが流行したときの戸主くろえもん。
この家は長寿の家で、江戸期でも普通に80歳越えの方が多い。
それなのに、59歳で亡くなったことを考えれば、親戚も若者が2人亡くなっている事を併せて考えるとコレラの犠牲者だろう。

同居家族で「さきさん」と「子供達」もきっと家庭内感染でのコレラ犠牲者と考えて良さそうだ。
では、さきさんは誰の妻なのか。
既に、長男つねきちは妻がおり。既に、長男・二男と子供に恵まれている。
可能性としては、31歳の二男やすえもんの妻子だろう。

彼は明治19年式戸籍では、独身。
明治21年に40歳で20歳近く若い嫁を娶っている。
その後、次々と子供達が生まれる。

しかも、仏壇に「つぎ」という女性の位牌がある。
「つぎ」という女性は、戸籍には居らず。
消去法で、戸籍と位牌を合わせて言った所。
やすえもんの妻「つね」でだろうと想像が出来た。

そう、多分。
やすえもんの先妻が「さきさん」。
後妻が「つぎさん」。
そういうことだろう、つぎさんは息子達の妻が早く亡くなった為。
大正から昭和に掛けて、今で言う「孫育て」をした人だ。

孫達が、昭和になって「おばあちゃんは、つぎさん」と位牌に「つぎ」と書いたのだろう。本籍地から遠い場所で亡くなり、位牌が有った場所が空襲に遭い。本来の位牌は、灰になっているのだ。

だから、明治初期には。
両親と息子2人の妻、そして孫と暮らしていた。
コレラによって、家族が亡くなる悲劇も経て。
明治19年に至ったと、私の中では想像が出来上がった。

ちなみに、この後。
明治19年式の頃のお話。

また、この家族に大きな受難が・・・。
これは、戸籍から導き出した想像だが。

つねきちは、茶農家では食べていけないと町場に妻子を連れて出ていったようだ。その仕事が、うまい具合に軌道に乗り。
田舎の家は弟に任せ、自分は田舎には帰らないと決めたのだろう。

戸主である つねきちは、本籍地を自分の住む住所にあっさり変更した。
多分、夫婦では話し合っただろうが。
戸籍に入る、他の家族には「本籍移転」の事実を伝えずにいたのだろう。

これが、家庭内トラブルを起こしたらしい。
本籍地を移した、母親は大いに怒ったのだろう。
「先祖代々の土地を捨てるとは なに事か!?」
そのくらいの事は言ったのでは無いだろうか。

結局、勝手に先祖の地を捨てたつねきち夫婦を残し。
二男のやすえもんを分家させ、元の本籍地に再度戸籍を作り直した。
そして、家族はあっさりと元の本籍地に戻って行った。

仕事の成功を形にしたくて、本籍地を変えたのに。
戸籍内の親族に総スカンを食らった、つねきち。
隠居が出来る年齢に達していない上、一人息子も成人していないというのに裁判所に申し立てて、未成年の息子を戸主に仕立て隠居。

妻も連れず、傷付いた心を抱え、一人山梨に旅立ってしまった。
どうやら、温泉旅館に住み込みで働いていたらしい。
山仕事の家業は、10代になっていた息子が継いだようだ。

その後、後を継いだ息子が山仕事で大けが(足を骨折)したときには、山梨から温泉を送って来て。息子は温泉を受け取り。骨折が早く治る様に、盥に温泉を溜め温泉を足に掛け続けたという話も残っている。
※TBS「ポーラテレビ小説」
1968年9月30日から1969年3月29日まで放送された
連続テレビドラマ3人の母 原作より

戸籍も併せると、ここまでの情報が妄想ではあるものの導き出せた。

戸籍があれば、あっと言う間にストーリーが組み立てられるのに。
戸籍が無い時代になると、相当の労力を使い。
やっと、ここまで繋がる様になる。

いかに、日本の戸籍が優秀であるのか。分かる様に書いたつもりだ。
自己満足なので、許して戴けたら嬉しい。

大変光栄です!ありがとうございます❤️