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江戸期の婚姻(とある寒村の一例)
さて、今回はとある山あいの村の郷土誌に書かれた内容から、
江戸期の婚姻について、お届けしたいと思います。
今回の内容について、前もってお願いしておきたいことがあります。
郷土誌を手元に置いて、一字一句間違わない様に書いている訳では有りません。通しで読んでみて、私が感じたこと。
形としてイメージ出来たことを、噛み砕いてお話しようと思っています。
ですから、事実と一部違う部分が出る可能性を持った上でお読みいただけたら幸いです。では、江戸期の婚姻についての記事スタートです。
場所は、とある寒村。
静岡の富士山麓に位置する村のお話です。
土地柄、豊かな土地ではなく。富士山の噴火などで、度々被害が出る土地ということで。一般的な農村部より、かなり厳しい状況であったと思われます。その辺りを加味してお読みください。
また、江戸期まで遡ると、地域性が強くなっていくので全国共通では無いでしょう。一部、明治前期に嫁として他家に嫁いだ女性達の”昔話”も交えて参ります。
江戸中期から後期に掛け。
この地方のには、多くの婚姻関係にまつわる文書が保管されています。
その中にあった、婚姻時のやりとりが非常に興味深く。
郷土誌内でも、相当なページ数を使い説明をしていました。
そこから見えて来たのは、今とは全く違う”婚姻”という概念でした。
当然、婚姻は親同士・家同士の繋がりで本人の意志は一切関係が無い。
その程度の知識は持ち合わせていましたが・・・。
婚姻時に、本百姓レベルになると持参金を嫁入り側が持って行くというのが通例となっていたと言う点は非常に興味深いものでした。
そもそも、結婚するためには”嫁が生涯を通じ、生活する上で必要な費用を持参する”という決まりが有ったというのです。正直これには、驚きました。
当然、百姓程度では生活は楽では無く。
嫁を貰うということは、働き手が増えるというより、家計負担の方が大きいのでしょう。だからこその持参金という意味もありそうですね。
何せ『口減らし』などという言葉もある時代。
一家で養う人数が増えれば、生活が破綻するリスクも大きくなっていく。
当然、食い扶持が増える嫁取り。
女性が、嫁入り時に自分の食い扶持を意識するのは当然のことでしょう。
持参期の他には、反物など、将来的に着物に仕立てて使うものから。
驚く事に、身の回りの世話をする使用人を連れて行くことも珍しく無かったそうです。この辺りは、庄屋クラスかも知れませんね。
その場合、使用人の食い扶持もプラスして持参していたそうです。
嫁入りには、今の常識を遙かに上回るお金が必要だったことでしょう。
江戸期。
男性は、二男以下は部屋住まいと言われ。
一生、結婚も出来ず実家で飼い殺しと良く言われますが・・・。
女性も、少なからず同じ様な状況であったと言う事はショッキングでした。
そりゃ、男女問わず”食費・生活費”が必要になりますから当然と言えば当然と言えるのですが。生き抜くことが大変な時代だったのが尚一層感じられました。
それにしても、一生分の生活費と。
身の回りの世話をする、女性も付けて嫁にやるとなると
”嫁にやる金も無い”
”食べさせる金も無い”
となれば、口減らしを考える。というのも頷けます。
女の子は、売れるから子供のうちに売った方が、本人も幸せかも知れない。そんな考えをしてしまっても、致し方ない気もするのです。
そうでなくても、食べさせてやれないと身売りする事もあったでしょう。
上手く、遊郭などで出世して身請けして貰えれば嫁に行くより幸せな人生を歩める可能性も有ったのでは無いかと感じてしまうのです。
さて、実際の文書のお話に移りましょう。
昔の婚姻に関わる文書には、今で言う『結納の目録』に近いものが紹介されていました。実際に何両という高額な額面が記載されており。
牛などの家畜。
反物。
そして、使用人に至るまで。
現代の様に、形式的な物ではなく。
本当に生活に必要で持参したものを、書き連ねた物という印象でした。
持参金は、家の格や時代によっても(時代が下がるにつれ、持参金無しでの婚姻も目立っていくとか)違っているようです。
地域性もあるでしょう。
郷土誌をそこまで読んでみて、なぜそこまで詳しく持参した金品を書いていくのか。正直謎でした”親の見栄”などもあるのかと読んでいくと意外な事実を知りました。
娘が無事嫁ぎ、数年が経過。
結婚が破綻したとします。
その時の離縁に関する文書も掲載されていました。
その時に、残された文書。これが非常に興味深い。
○○村の××の妻を、△△村の○○の所に戻す。
それだけかと思ったのですが・・・。
そこに嫁入りの際と同じく、目録が付いていました。
嫁入り時に持って行った品は、一生掛けて使う女性の財産です。
女性は、それを自分の資産とし婚家で生活し。
離縁時には、残っている金品は全て保持したまま里に戻るそうなのです。
これは、意外なお話でした。
ですから、砕けた話をすると。
「アンタの所の娘、離縁するそうだから。嫁入りの時に持って来た資産。
残ってるのは、全部一緒に返すから確認してな!」
って感じみたいです。詳細については、本人に聞いてくれ。こちらは預かり知らないから、万が一不服があったら調べることもするけれど。
まあ、良い様に手打ちしようじゃないか!的な言い回しでした。
そりゃ、驚きますよね。
持って行った財産は、本人がガッツリ握って婚家でも一切家族にも触らせず。生活できるなんて、私の持っていた認識と大きく違いました。
私自身、嫁は働き手で。
持参金や嫁入り道具は、夫の親が取りあげてしまう。
嫁は奴隷に近いのでは?という感じでしたが、どうやらそれなりのお宅のお嬢様の嫁入りはそうでは無かったようです。
水呑百姓などの婚姻に関する記事は無く。
持参金を持って行けない経済状況の嫁入りが気になる所です。
最後に、嫁様の1日ってどんなだったのだろう。
相当過酷だったのでは無いだろうか・・・。
そう思って読んでいくと、江戸末期生まれまたは、明治初期生まれ。
明治期中期~後期に嫁入りした女性達の子育て時代のお話が、別冊に載せられていましたので少しだけ書いてみたいと思います。
この体験談を読んで、数日ショックで不眠になったのでオブラートに包んで書きますが。一応、警告の上で書いていきたいと思います。
女性達の婚姻と子育ては、想像を絶する物でした。
朝から晩まで、野良仕事をした後。
晩の食事の準備、片付け。
桶で汲んで来た水を、湯船に張り。
薪をくべて風呂炊きをし。
家族の全員が入り終わるまで、真冬でも寒風吹きすさぶ中で火の番をして。
1人1人の背中を流しに浴室に行く。
もっと力を入れて、擦れ!と怒られるが・・・。
野良仕事をして、冷たい水で家事をする手はアカギレが割れ。
血が滲み、ボロボロで家族の背中を擦る時に使う洗剤代わりの洗い粉が激痛だが声も挙げられず。力も入らない。
野良仕事で、汚れた身体で大家族が入ったどろどろの冷めた残り湯を使い。
家族全員が寝静まった頃に、着物の解れなどを縫う為に夜なべをし。
蚕を飼っていたので、翌朝に蚕に与える桑の葉を収穫に畑に行き。
夜が明けるまでのしばしの時間、眠る事が許されるが・・・。
赤子が、定期的に泣くので眠れる余裕は無く。
夜が明ける少し前に、寝床から起き出し。
朝食前に、蚕の世話をし。
家族が起きる前に、朝食をつくるべく。
薪で火を付け朝食の準備をする。
これが365日続くというのです。
「ほとんど眠る時間も無かった。朦朧としながら、泣き叫ぶ赤子を抱いて絞め殺しそうになった。泣いても何も変わらない、夫は自分を庇うこともしない。帰る場所も無いから、全身が壊れそうに痛む体を抱え。とにかく必死に生きてきた」
そんな内容の体験談ばかり。
明治期の寒村に嫁いだ女性というのは、これほどまでに過酷な物だったのか。そりゃ、洗濯も手作業。水を汲むのも手作業。
薪割りに、炊事も全て中腰で・・・。
風呂も全て薪で焚き。着物と下駄で生活する。
私には想像が出来ません。
その昔。
私自身、被災してライフラインが途絶えたとき。
水を汲んで来て、手で洗濯をして干しただけで全身筋肉痛。
手が荒れて泣きそうだったのに。
現代人である自分がいかにひ弱で、甘ちゃんなのかと・・・。
しばらく夢で魘されました。
昔の女性は、あんな過酷な中で子供を次々と産み。
育てていったなんて・・・先祖調べをしていた中で一番ショッキングだった出来事でした。
大幅に脱線しましたが。
こうやって、当時の民俗や風習などを知ることも先祖調べをする際は是非お勧めしたい出来事になっています。
以上、寒村の婚姻事情でした。
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