貞包英之『サブカルチャーを消費する 20世紀日本における漫画・アニメの歴史社会学』玉川大学出版部
本書は、「年少者向けのサブカルチャーとしての漫画やアニメを対象として、20世紀日本で人びとが経験した『消費社会』の限界と可能性をあきらかにすること」が目的とされる。漫画やアニメが、かつては年少者に偏って消費されていた。
著者は、漫画やアニメが、「消費社会」の片隅に追いやられた年少者たちをおもなターゲットとし、年少者が現在の社会を超える夢や妄想を育ませたメディアとなったことに注目し、日本の「消費社会」がはらむ歴史的特殊性と、それを超える可能性を明らかにしたいと言う。
著者は、6、7歳から14、15歳程度の者を対象として年少者と呼ぶ。大人と子ども、親と子、先生と児童、教師と生徒といった対立や、権力関係から距離を置くためで、相対的な呼び名であると言う。本書では、映画、戦争、性差(バレエ漫画)、都市(秋葉原など)・年少者(コミックマーケット)の4つの章に分け、時代の流れに沿って分析する。
悪書追放運動は、1955年の鳩山一郎首相の施政方針演説も影響し、漫画を悪書とする動きに火をつけた。児童誌が「見る雑誌」化し、掲載物の半分までが漫画となることで低俗化と批判された。内容について、荒唐無稽、ふまじめな生活態度、好戦性、感傷的で類型化しているなどと非難された。複数の「母の会」で、雑誌や単行本を焼くという実力行使がなされた。
チャタレイ裁判で、猥褻と認定されることで規制ができることとなったが、逆に局所的な修正をすれば規制を回避することができるようになった。取り締まりが進まないなかで、過激な出版物や映画が年少者に悪い影響を与えているという認識が一般化した。
しかし、悪書追放運動の「母の会」は、警察バックに組織されたことが公然の事実となっていた。警察は、敗戦を契機に失った検閲権益の回復を狙うとともに、チャタレー裁判の影響で強引な取り締まりがむずかしくなったことで、民間との協力の道を探ることとなった。また、民間側も、警察と協力することで検閲の法制化を避けた。なお、都道府県単位の青少年育成条例が制定される。
年少者が漫画を大量に読み始めていたという事実も、漫画に対する反発につながっている。しかし、年少者は本の貸し借りを行うとともに、貸本屋が興隆し、漫画を見ていないと、話題がなくなって友だちを失うことになりかねなかった。
1975年、同人誌活動をしていた人たちが集まって、コミックマーケットが始められた。おもに漫画を主題とした同人誌を即売し、日本の漫画やアニメの消費シーンを動かす大きな力となった。当時、大学の在学中、または卒業直後だった人びとにおもに担われた。
同人誌は、当初、駆け出しのプロやプロを目指す若者たちが集う場合が多かったが、70年代に入ると「読者」主導の同人誌づくりが全国的に展開された。コミケは「読み手」によって計画された場として特徴がある。
受動的な買い手でしかないジュニア層を排除し、準備会やサークルとともにコミケをつくる協力者として、「客」を「一般参加者」と呼びかえることで、商業的採算性の問題を免れてきた。
しかし、コミケの参加者の拡大し、市場で買える漫画やアニメにかかわる商品に飽き足らない多数の「客」が押し寄せて来たことで、理念は変容した。1980年代になると、「ジュニア層」や「客」であれ、すべてを受け入れるようになった。そこで、「表現の自由」を旗印にコスプレも受け入れられる。
「表現の自由」の追求のなかで、「大人達にわけのわからないうさんくさいもの」さえ受け入れられ、サブカルチャーとしての表現の幅を拡げてきた。一方で、同人誌の商業化がますます拍車をかけ、同人作家にとって収益を上げるための大規模市場となった。
1990年ころから、年少者に性表現を見せることの是非が問題となってくるが、コミケでは、サークルへの要請にとどまり、「表現の自由」の名のもとに年少者への来場規制などは行っていない。
その一方、秋葉原は、年少者が排除されることで、男性年長者が年少者や女性からの批判を考慮することなく「私」的な妄想に耽ることが可能になった。購買力で有利な年長者に漫画やアニメの主戦場が譲り渡された。年少者が追求してきたものが、年長者も魅了し受け入れられている。
本書は614頁もの分厚い本であり、全部の内容を紹介することができない。日本の漫画・アニメについて戦前からの歴史的なみちすじを顧みることは、これからの漫画・アニメを考えるためにも読む価値はあるのではないかと思う。
日本の漫画・アニメのコンテンツは、自由な表現と模倣への寛容さのなかで、世界的に見ても独特な発展をし、ユニークで優れた作品が生み出されてきた。架空のもので、かつ、年少者から遠ざけられていれさえば、表現の規制はされないという原則が今のところ守られている。
おたく文化をクールと称賛する一方で、行き過ぎたジェンダー論により、個人的な趣向にまで介入しようとする動きがある。SNS等を使用し「萌えキャラ」を使用した広告を攻撃し、取り下げさせることで喝采する人たちもいる。「消費社会」のなかで人びとが幸せで文化的な暮らしをするためには、どのような社会が望ましいか考える必要があるのではないか思う。