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岡崎守恭『大名左遷』文春新書

大名の改易と転封について書かれたものである。大名の取り潰しと国替えは、織田信長が企図し、豊臣秀吉が実行し、徳川家康が完成したという。本書は、当然ながら、第3章で赤穂浪士についても、津山藩森家に仕えていた3人に焦点を当てている。

今回、取り上げたいのは「第5章 復活 取り潰しから筆頭老中ー松本藩水野家」である。

「松本大変」と言われた事件のことである。浅野内匠頭が吉良上野介を刃傷してから24年後、また江戸城の「松の廊下」で刃傷があった。享保10年(1725)、松本藩7万石藩主水野忠恒は、突然、居合わせた長府藩の世継ぎ毛利師就に脇差を抜いた。

忠恒の乱心の原因は酒乱で、アルコール依存症であった。松本藩は取り潰しとなったが、名門ゆえに先々代の弟に7千石の旗本として家名の存続を許された。

忠恒の兄、忠幹は名君として他国まで知られていたが、享年25で若死にしてしまった。忠恒は、病死した兄の跡を継いで23歳で藩主となった。弟の忠恒には重圧となったのか、常に大酒を飲み、「賢兄愚弟」の典型的な姿となる。

登城は自らの婚姻のお礼であった。前日夜遅くまで酒を飲み続け、家中が不安の中で拝謁も終わり、ほっとしたのも束の間であった。忠恒は川越藩に預けられ禁固となったが、ほどなく水野家に移され、その後、蟄居で15年も生きた。

幕府は忠臣蔵に懲りて、加害者は乱心とし、相手が死んだ場合は切腹、死ななければ情状を考慮し、家は取り潰すが、本人は蟄居にとどめることとしていた。江戸城やその周辺の刃傷は、大名が絡んだものだけで8件ある。忠臣蔵の前に3件、その後に本件を入れて4件である。

水野家は松平家と複雑な縁組をしている。水野家の娘、お大は、家康を産んでいる。お大は、織田家と今川家の狭間で離縁し、実家に戻り、他家に嫁ぐ。しかし、天下人となった家康とつながりがある。忠恒の松本藩は、お大の甥で、家康の従兄弟に当たる忠清から始まっている。

取り潰しで旗本となった水野家であったが、7代目忠友は、十代将軍となる家治のお伽役に起用され、家治の側近としての小姓、西丸御用取次となる。家治が将軍となると、若年寄、側用人と栄進し、天明元年(1781)、老中格となる。幕府の財政を取り仕切る勝手掛である。

加増も相次いで2万5千石となり、沼津藩の城持ちの大名となる。天明5年、ついに老中となり、3万石。引き続き勝手掛を続け、側用人も兼ねる。幕閣の枢要な地位を占め、権力と観点から先祖を超えた。そして水野家は明治維新まで沼津藩として永続した。

ところで、「第1章 「出世藩」から「懲罰藩」へー左遷の地「棚倉」」出てくる小笠原長恭は、信濃国守護で松本城主であった小笠原家の分家である。棚倉藩から唐津藩6万石へ転封となり明治維新まで続いた。なお、本家は小倉藩15万石である。

江戸時代の大名の改易と転封をドラマ仕立てで興味深く解説した本であり、歴史が好きな人にはお勧めと思う。ところで、松本藩の水野家も家名は残り、沼津藩として復活するが、改易により生活に困窮した武士たちが多く出たことからも、そんなに生やさしいものではないとは思う。



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