山口真由『「ふつうの家族」にさようなら』KADOKAWA
著者は、37歳、未婚、子なし、同居人は妹、凍結された卵子15個、おそらく「ふつうの家族」を営んでいないと言う。「ふつうの家族」という聖なる呪いに長いこと苦しめられてきた著者が、「ふつうの家族」なる価値に寄りかかった安易な自分にさようならをし、代わりに「ふつうの家族」とは何か、そもそも家族とは何かという問いに向き合っきた過程を著わした著作である。
2016年、著者はハーバード・ロー・スクールに留学していたとき、授業の課題として、シングルマザーとなる方法を真剣に考えていた。そこで、クラスを担当しているミンディ・ローズマン先生は、「精子提供」という方法を教えてくれた。
米国の「精子バンク」の場合、精子ドナーから好みのものを選べる。身長、体重、髪の色、目の色のほか、アジア人とヨーロッパ人の複雑な混合など、あらゆる希望がかないそうな気配である。ドナーが特定されないよう5歳くらいの幼い写真しか見せてくれないが、追加料金で成人後の写真を見せてくれるところもある。
精子ドナーは、20代の大学生と30代の社会人がいる。バイト感覚の大学生は匿名を希望する。社会人は人の役に立ちたいと考えているので、名前を明かしてもよいと答える。しかし、精子の運動率が高い大学生の精子が喜ばれる。
子どもの出自を知る権利が世界的に認知されるようになると、匿名の精子提供を禁じる国が増えている。米国の精子バンクは匿名が生命線ではあるが、アイデンティを明かすドナーには100ドル高い金額を設定する。
米国で精子バンクが発達したのは、フェミニズムの影響がある。リベラル・フェミニズムは、生殖に関する新しい技術が男女の非対称を解消とすると宣言する。子どもを産んだことではなく、子どもの人生を引き受けると決意し表明することにより親になるとする。「意思により親となる」という考えをリベラル・フェミニズムは支持をした。
結婚の価値は長期にわたる安定した関係である。より安定的な関係であるゆえに、これを基準として家族を把握するため、社会のなかで別格のステータスが与えられる。結婚は特別だという考えと、結婚は長く維持されるべきだという考えが、ニワトリとタマゴの関係で無限ループする。
しかし、最先端の主張でLGBTQ+から支持受けてきたジャネット・ハリー教授は、こういう「結婚観」を敵とみなす。結婚はお互いの権利と義務の束であると同時に、それに伴う無数の特典の集合体であるとハリー教授は言う。特別のものでも、聖なるものでもない。したがって、同性婚について従来と同じ結婚を求めることにも反対する。結婚の実益を、結婚以外の結びつきを求める人にも分け与える選択肢があるとする。
米国は家族の輪郭がはっきりしている。親は子どもに対する絶対的支配権を持つ。それは庇護の裏返しである。しかし、成人となると、突然、子どもは独り立ちし家族の囲いから弾き出される。親は大学へ行くまでの学費は支払うが、大学院の学費は支払わない。成人した子どもが家を建てるとき、頭金を出すのではなく貸す。逆に成人した子どもは親の介護を負担しない。
一方、日本の「家」は会社である。家の財産をバラバラにせずに、次の世代に伝えていく。だから「相続」は発生せずに「事業承継」が行われる。しかい、明治維新により欧米の価値観である「相続」がもたされた結果、相続争いが起きる。
日本では、年老いた親の介護が必要とするならば、既に家を出ていたとしても、まず子どもが担い手となるべきとなる。財産が家にあると考えるから、子どもの財布から出していても、家の財産から出しているに過ぎない。民法714条である。
2019年6月1日の元農水省事務次官による長男殺害事件は、親が子どもの面倒をどこまでもみなければいけないという「無限擁護」の考え方に課題を突きつける。日本は西欧の個人主義へいまだ過渡期にあるのだ。家が痩せてしまったことから、「個人」主義的な未来へ加速度をつけて進んでいかなければならない。後戻りはできない。
日本の向井亜紀さんのケースでは、向井さんの卵子と高田延彦さんの精子を体外受精してできた胚を代理懐胎者の子宮に戻して双子の赤ちゃんが生まれた。夫婦は品川区に出生届を提出したが受理されなかった。米国ネバダ州の裁判所は代理懐胎を認めた。しかし、最高裁判所は親子関係は一律に決定されなければならないとして、子どもを出産した者を母親とし、向井さんの「実子」とは認めなかった。
ジャネット・ハリー教授は、結婚は場所によって点いたり消えたりする相対的なものととする。様々な結婚の形態により特典が変わる。親子関係も相対化は免れない。米国の裁判所は、分娩により、血縁により、親としての機能を果たすとして、それぞれ親として認める。
最高裁判所は、「子どもを産んだ人=母親」とルールの例外を認めないことにより、誰の子でもない子を減らそうとした。しかし、世の中は逆の方向に向かっている。家族が確固たる身分秩序から、個人と個人とのそれときどきの関係へと展開している。ステイタスからプロセスになりつつある。
著者は、当初、「ふつうの家族」の押しつけに抗議するはずであったが、「家族の普遍」を探すことを始めた。ただし、ひとつだけ言えることは、そこがゴールだと確信できる究極の「ふつうの家族」なんて、昔も今もどこにもなかったと主張する。
サザエさんやドラえもんの家族はいない。安倍元首相の言う「三丁目の夕日」はもうないし、トランプ元大統領の「大草原の小さな家」も物語のなかの思い出でしかない。しかし、大きく変わっていく社会のなかで変わらないものはないのか。それが著者の問いであると思う。
著者については、記憶法・勉強法の著書や、TV出演で名前を知っている人も多いと思う。本書は日本の制度より米国の制度の方が優れていると主張するものではないと思う。自らの経験にもとづき日本の家のあり方を見直して、新たな家族のあり方を模索している。
民法772条の嫡出推定の規定が例外のないみなし規定として扱われていることについての法改正や、こども庁とこども家庭庁の名称問題など見るにあたり、著者のこれからの研究に期待するところである。