わかりやすさと大衆
100分de名著をよく観ているが、特に心に留めておきたい回がある。(政治編)
それは、『アーレント/全体主義の起源』と『オルテガ/大衆の反逆』だ。
どちらも大衆社会について論じている。
大衆社会の誕生
19世紀から20世紀にかけて、人口が急激に増え、農村から都市に住み着いた人々は、階級もバラバラで、無個性、無気力で、どこに向かっていいのか分からない根無し草のような群集となった。彼らは他人との同一を望み、平等の名のもとに秀でた個性を抑圧した。「平均人」の集まりであった。
デモクラシーの時代、彼らは主権者になった。無関心でも政治参加できたのだ。
彼ら大衆は共有する理念も求める権利も持たなかったが、同一化を望んだ。第一次世界大戦後、貧困や閉塞感を感じる中で ”わかりやすい世界観” を求めた。
帝国主義の国々は人種理論(我々文明人は生物学的にも優れているし、植民地の人々を支配し導く使命を神から与えられているとの考え)を提唱した。
さらにアジア・アフリカへの植民地化に出遅れたドイツでは、「ドイツ民族が一番優れており他の民族を支配すべきなので、血の共同体としての統一を求め、元々住んでいた土地を取り戻そう」という民族的ナショナリズムのもと、ナチスが台頭し東ヨーロッパを侵略していった。
この ”わかりやすい世界観” は人々を魅了し、安心させた。
私達は「棄民」ではなく「選民」なのだと。
神と選民思想
ここで100分de名著では出てこないが気になることがある。ユダヤ人の信じるユダヤ教こそ選民思想なのだ。
さらに、キリスト教でもこの苦しい時代のなかで、人々は神に自分たちは救われる存在なのか不安になっていたのではないか。19世紀末の大著『カラマーゾフの兄弟』でイワンは劇中劇の人物に語らせている。キリストに対して。
かよわい、永遠に汚れた、永遠に卑しい人間種族の目から見て、天上のパンを地上のパンと比較できるだろうか? かりに天上のパンのために何千、何万の人間がお前のあとに従うとしても、天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たちは、一体どうなる?
貧しく、無力で、罪深い民衆は、この「救われないのでは?」という漠然とした不安を感じていたのではないだろうか。
この ”棄民になりうる不安” が選民思想を助長させたのではないか。
棄民の選民
第一次世界大戦敗戦国のドイツは土地も金も失った。ユダヤ人がドイツ民族のポテンシャルを奪っているから我々は貧しいのだ、と昔からの陰謀論に拍車がかかり、異分子を排除しなければ、と反ユダヤ主義のイデオロギーが生まれた。ヒトラーは「ユダヤ人の楽園か、ドイツ民族の国家か」と二者択一を迫った。閉塞感を感じていた大衆は、ユダヤ人の弾圧と階級からの開放を求め、ナチスを選んだ。
そうしてホロコーストの悲劇は起こった。
わかりやすさを求める現代人
どの分岐点で避けることができたのだろうか。我々はヒトラーを選びうる大衆なのではないだろうか。
現代、当時よりももっと、わかりやすさを我々は求めていないか。音楽も動画もどんどん短くなり、good/bad の二者択一の評価。ネタバレや口コミを先に読む人々。センセーショナルなものを求める人々。
わからないもの、嫌いなものは避けても生きていける世界になりつつある。
それの何が悪い?これが自由では?と言う人もいるだろう。
でもその先に何が残るのだろう。我々が未来の人に残していけるのは、我々が心地いいと思ったことだけになったしまうのではないか。我々は判断する前に分からないもの、なんとなく嫌いなものをちゃんと見つめたのだろうか。そもそも未来の責任を負っても判断する、裁く、そんな目や耳を私達は持っているのだろうか。というかそこに真理を求めたことはあるのだろうか。
陳腐な未来になってしまうのではないだろうか。
オルテガはこう書いている
大衆人は、自分は完璧な人間だと思っている。ー省略ー つまり、われわれはここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものにつきあたるのである。賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている。だからこそ、すぐそこまでやって来ている愚劣さから逃れようと努力を続けるのであり、そしてその努力にこそ英知があるのである。
最良の共存形式は対話であり、対話を通してわれわれの思想の正当性を吟味することであると信ずることに他ならないのである。
文明とは、何よりもまず、共存への意志である。
対話は面倒くさい。まどろっこしい。
それでも、文明人であることを望むのならば、相手のもっている自由を認めていかなければならない。
そのためには、面倒くさいこと、まどろっこしいことをやらなければならない。答えがないこと、わかりにくいこと、複雑で曖昧なものに向き合わなければならない。
我々愚かな人類には ”複数性” が必要なのだ。自分と異なる考え方をする人々を認める必要が人間にはある。と私は信じる。