俺流堕落論

私はバスが好きだ。これは別に車好きとかいうわけではなくて、バスに乗ってる時間のことを言っている。好きと言うのも違う気がするが、車内で一人揺られている時はずっとこのままがいいなと思う。私にとってのバスは目的地に着くまでの移動手段でしかないのに変な話である。目当てのバス停の近くになるともう終わってしまうのかと言う寂しい気持ちを味わうことになる。しかしただバスに乗ればいいってもんでもない。混んでいては意味がないのだ。そして席は一番前、年寄りと子供は座るなという段差があって高くなっている席がいい。あそこに座れば外の景色と毎日同じ道ばかりで疲れている運転手の頭と運転手が司っているボタンやレバーが見れるのでいい。他の乗客は少なければ少ないほどいいな。
私はこの世に嫌いな人間はいないし、幸い人間関係には恵まれている。ただ、いつだって、知らない街に行きたい様な気がしている。バスとの時間は私を何処かに連れ出してくれる感じがする。いやまあ実際そうではあるのだけれど。
バスを使う様になったのは高校に入ってからで、前まではイオンモールまでしか知らなかったような地元が大きくなった気がした。少し無理して入学した新学校はかなり自由で、勉強は忙しいが部活動など、やりがいがあって楽しい。地元が広いと感じたのと同じように僕の世界も大きくなったように感じて、人付き合いも以前より鬱陶しさを感じなくなった。自分も周りも、成長したんだと思う。
日々が楽しいということは忙しいということで、私は以前までの休日に感じていた虚しさの感覚を最近まで忘れていた。ただこう、長期休暇となると丸一日予定がないって日も出てくる。一日予定がない。やるべきことは山のようだが、できることはそう、堕落しかない。
中学の頃、背伸びして坂口安吾の堕落論を近くの本屋で買った。小さい字と、明朝体の、令和には中々お目にかかれない漢字にまいってしまい降参したのはしょっぱい思い出であるが、この際再び挑戦しようと本棚を見ても見当たらなかった。無くしてしまったのだろうか、全く、私にはつくづく呆れる。しかしないならしょうがない、奥の本棚なんか汚くて触りたくないし、この際私が考えた私なりの堕落を展開しようじゃないか。
色欲に敗れ、文明の力にとことん頼り、埃の被った本を読見返そうとは思うもののここで何か始めれば明日の自分が辛い思いをするのではという無駄な心配をし、結局それ以上に無駄に時間を浪費する。私的にはこれをまとめたのが堕落である。これに手を出してしまえば沼である。必ず後悔して寝るのが決まりだ。
では、久しぶりの堕落。どうだったのかというと、意外にも悪くなかった。人によっては喉から手が出るほど欲しい時間という見えないモノを無駄にしている感覚。だめだだめすぎると分かっているがやめれない、もはやドラッグだ。
そんな堕落も、2日続くと話が違ってくる。ドラッグ中毒になる。こうなればもうため息しか出てこない。嬉しいだとか楽しいだとかの感情なんて忘れて、悲しさのようなもので満たされる。要因は全て自分自身だからこそ、誰かのせいで駄目になりたくなる。このまま殺されたいような気分。次の日に予定があるのが唯一の救いだ。すごく行きたくないけど。
目的地まではバスで向かう。どこか違う場所へ連れて行ってくれないかと思う。

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