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September 11, 2001

あの日から20年が経ったそうです。

2001年9月初旬、留学先のBostonからNew Yorkに引っ越し、9月10日から研修先の法律事務所での勤務が始まりました。

他の新人弁護士はみなビジネスカジュアルの装いの中、自分だ+けきっちりスーツというaway感をさっそく味わった初日を終え、翌9月11日の朝、自分にあてがわれた執務室で荷物を整理していると、近くの執務室の米国人弁護士が私の部屋に飛び込んできました。

「はじめまして。ところでWorld Trade Centerが燃えているぞ。」

"What is World Trade Center?"と間抜けな質問を返したことをよく覚えています。数日前にNew Jersey側からManhattan島を眺めたとき、南端のTwin Towersも視界に入っていたはずなのですが、その存在はまだ、私の中に刻まれていませんでした。

ほどなく会議室に集められ、テレビ画面がプロジェクターで大写しにされました。2本のビルの1本から煙が上がっています。そして、もう1本のビルに飛行機が突っ込みました。まるで、映画を見ているようでした。

すると、画面が変わり、Pentagonが大写しにされました。煙が上がっています。その絵が私を現実に引き戻しました。「世界がたいへんなことになる」と思いました。

そして、1本のビルが崩れ、”The building has collapsed!”との叫び声が上がりました(lost!だったかもしれません)。

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この日、午前中で業務は終了し、それぞれ自宅に帰ることになりました。55th Streetにあった職場から42nd Streetの自宅まで、私は南に向かって歩いたのですが、多くの人々は逆向きに、マンハッタン島の南部から北に向かって歩いていました。

民衆が、車道いっぱいに広がって、私の方に向かって、とぼとぼと歩いていました。

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ちょうどNew York Cityに遊びにきていた事務所の同僚Aが、留学先のSeattleに戻れなくなり、私の自宅に泊まってもらうことにしました。彼の安全を確保した後、今度は事務所の別の同僚Bが、World Trade Centerの近くにあった学生寮から追い出され、ホテルに仮住まいすることになったことがわかりました。同僚Aと着替えや飲料水を買い込み、同僚Bに届けました。少しでも人の役に立ちたいという感覚は、自分のためだったのかもしれません。

当時は多くの人が携帯電話を持っておらず、彼らとどうやって連絡を取ったのか、よく覚えていません。国際電話は通じませんでしたが、自宅のケーブルテレビ経由のインターネットは通じており、日本とメールのやりとりはできました。

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翌日の新聞には、Kamikaze Attackという文字が躍っていました。日本政府からこの言い回しを否定する声明は、ありませんでした。

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数日経つと、街中に星条旗があふれ出し、事務所では星条旗バッヂが配られました。袋には「MADE IN CHINA」という小さなシールが貼ってありました。私は、付ける気にも捨てる気にもなれませんでした。

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