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結局、自分探しの旅か。

質量への憧憬 2019/1/26〜2/6 落合陽一個展

最終日にふたたび行ってきた。カフェタイムにギリギリ間に合わず、話題のシロップは楽しめなかった。最終日らしく大変な人の賑わいだった。今回は気負わず、とにかく自分の好きな写真を探そうとそんな感じで。

前回はこちら。
https://note.mu/makichiku/n/nc3a53dc28131


右上。ゴミ箱の隣に添えられた花束。これがひどく絵画的に思えてこのあとの立体に全て添えられているドライフラワーのルーツかな、と思った。違う写真に使われていた言葉だけれど時間の経過と無造作な場所から切り取られた美しいこの絵もやはり退廃美だなと思う。これを自分の家の玄関に飾りたい。

ボケているのかキリッとしているのか、あとからiPhoneの写真フォルダで見たときに感覚がわからなくなってしまった(笑)

その上の方にあった白いボケの写真と横断歩道の「歩け」のシルエット。人が入っている写真が好き。しかもなんでだろうか、この子は動いているところを切り取られたような感じがする。

生きてる、大地の血管。真ん中の太いパイプまでも柔らかく曲がりくねっているように錯覚する。無機物と有機物を分け隔てしない人が撮るとこんな風になるのか。

空に伸びる双葉。

あ、こちらにも。

朝陽?夕日?線香花火の玉が落ちそうだよね。

つぎは奥の壁。一番広い壁一面の写真群より。

教室に長く伸びる影、なんとなく人の気配がする。黒い壁と窓の明かりの対比が潔い。秋かな、隣はイチョウだし。

手前左は女子高生と思しき姿。右手の奥の方には三人分のシルエット。女子高生と三人の間の空間を占めるのはおおきな蛍光緑の光と奥に向かって点が並ぶように着いているオレンジの灯り。三人のさらに向こう側にぽっかり空いている出口からは眩しいほどの四角い光。つやつやとした廊下に蛍光緑とオレンジの光が反射していて、まるで床一面が発光しているかのようだ。テキストだけ見るとSFぽいのに写真はノスタルジー感で溢れている。 なんというか、すごく"一瞬を切り取った"という感じがする。

落合ファンならみんな知っている弊息子氏のうつむき微笑み写真。その左隣のモノクロ写真には無造作に置かれた物干し台が写っている。いや子供用鉄棒?この並びがツボい。

一番広い壁の一連の写真は落合さん本人ではなくスタッフがランダムに並べたのだそうだ。だから写真並びはみんな偶然。その偶然がわたしの心に響いてきた。

ふたたび立体。

前に来た時までは白い灯りがヘビのようでエロティシズムがあると思っていたけど、今回改めて見るとこの枝ぶり、うねり具合、上に上にとの首を伸ばしている様が八岐大蛇のようで力強い。そしてこの左端にそっと置かれてる花が、最初に述べたドライフラワー。無かったらさみしいのだろうか、でも花がありすぎたら演出過剰で違う作品になってしまう。そっと添えられてるその具合がたぶん良いのだ。

ふたたびシリーズ写真。

遠目から見てみんな同じ構図だなあ、と。そして落合さんも「どの国もストリートを撮ると同じなんだよ」と言っていた、そういえばね。だからこれはこの12枚で一枚の作品なんだ。

わたしの一番好きな鉄骨の鳥居の対面の壁。鳥居写真の部分拡大。さらなるディテールの積み重ねと、一枚では語りきれなかった鉄骨周辺の人々の生活や時間経過が垣間見える。ちょうど対面する場所に飾ってあったのは、敢えてだよね?

と思ったのは例えば次から。

入り口入ってすぐのスペースからさらに中の部屋に入って右側にある柱。着物帯で気づいたけれどこの柱は全部草花の写真で飾られている。帯だけが唯一の人工物だけど柄は植物。

一方、その対面の壁はこんな感じ。

上から下まで建造物、人工物の写真だった。その人工物の最高峰がおみくじの塊という人の意識の集合体であるところがエモい。いやむしろちょっと怖い。

感想

忘れていた、子供だった頃は持っていたような柔らかい感性を思い起こさせるような感じがした。ちょっとだけカサブタを剥ぐような生っぽい感じと、やさしさと柔らかさ。もう一回自分の中にダイブだ。

オマケ
ドット絵みたいに並べられてた胡蝶蘭達。

おしまい。

#落合陽一
#質量への憧憬
#質量2019

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