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独虎

気が付くと、また高い山に登っていた。

雲が近い。ずっと見ていたいが、強い風がさっと連れ去ってしまう。木も生えぬようなこの場所には、己ひとりであった。ここは、街がよく見えた。今の姿の自分では、もう戻れない。街を見つめるその目は、人間だった頃の彼を一瞬思い出させるかのようだった。冷たい風が彼の全身の毛を通り抜け、体を冷やした。

ふと、自分の前足を見ると、毛に血が付いていた。茶色い草に血を拭う。何度もやるが、全部は取れない。唾液を一飲みすると、鉄の味がした。口の中には、小さな肉片がまだ残っていた。唾と共に地面に吐き出す。口の周りをべろりと一舐めした。また、血の味がした。
「狐か」
人間の感情であるときに、その血の味を感じるというのは、とても不快であった。

一日のうち、数時間だけは正常な人間の感情が戻ってくる。徐々にその時間が少なくなっていることにも気づいていた。何かにすがりたい気持ちであった。

昼間である。太陽は眩しすぎて見上げられないが、その太陽でさえも、今は純白の雲に隠れている。いつも見上げる月も今は無い。

びゅうと、風が下から吹いた。兎の匂いが混ざっている。また、ひとつ唾液を飲んだ。
この山には街道があり、人の往来があった。最近ではその数も減っている。森の動物たちが自分を避けるように、人もまた自分から離れていくのだと理解した。街を見下ろしながら、人間だった頃に思いをはせた。

徐々にまた、虎が人間の自分を追い詰める。
なぜ、私は兎を追わないのか。自然に湧き上がった疑問であった。

理性が溶解するのと同時に、鋭い五感が蘇ってきた。
ガサガサガサッという音をとらえた。兎は2匹。じゃれ合って遊んでいるようだ。狐だけでは腹は満たされなかった。

一匹の大きな虎は、ダッと駆け出した。

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