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別天津神  (樹)

三祖大神のメッセージがほしかったので

担当がスマホの写真フォルダをみていると、、
保存した覚えのない写真がありました。

現実的に考えると、
”ひとさまのページを見ているときに、間違えて保存しちゃったんだな”
ということで、まあ、実際そうなんでしょうが、、

それが、三祖大神神社様の写真だったもので、、”こ、これは、なんか、メッセージをもらえってことなのか、、”と、スピ魂をだして、樹氏にきいてみることにしました。

、、但し、樹氏は現実的な人なので、こういう前振りは無しで、、三祖大神のメッセージください、、と頼んだところ、、


とのこと、、

まあ、そういわれてみると、そうなんでしょうが、、

因みに、三祖大神神社の神様とは、

天之御中主神アメノミナカヌシノオオカミ
高皇産霊大神タカミムスビノオオカミ
神皇産霊大神カンミムスビノオオカミ

です、、けっこう人気のある神様ですよね、、

なので、もうちょっと、詳しく説明してくださいとお願いしました、、

別天津神  (樹)


信じている、信じたい人がいるのですから、こういうことを言うのはいかがなものか?と考えていましたが


「そういう人も入ってきますよ」ということですからね、まあ仕方ないので話します


大きく分けるなら古事記を代表とする、やまとの神話は神の段階を三つに分けられます


別天津神 天津神 国津神


言われるところの「神話」はね、人格神が成すことであります

人の形を取り、人も神も「生きている」ということが前提ですね


それはイザナギとイザナミを始祖とします


そこからが神話という名の「人話」が語られていくわけです


人の形をとるということは、人と同じく、食う寝る交わるということが行動の基本

「欲」ですね。それがなければ動かない生きられない


願い、祈り、それを形作るのは、やはり「欲」です


これこれこうしたい、したくない、という誠に単純な欲から世界や社会がどうのこうのと、大きな願いというか気持ちがありますが。そのどちらも


「欲」というものがそれの根底にある


イザナギとイザナミもその欲があるからこそ、交わり、子を成した


欲がなければね、生きていくことはできないのです、それはどうしようもない摂理であり真理です


ですから、人の形した人格神とも呼べる存在も、人の形を取る以上、その中に欲というものが、その神体のどこかに存在するのです



地球の始まりと、命の始まりは、同時ですか?


違いますよね



命が始まるためには、細胞が誕生する環境が整っていなければなりません


元素が生まれて漂い、混在して交じり合い、モノが生まれて水が出来、大地が海ができて、そこで初めて


「命が生まれる」わけです



つまりです


別天津神とは、元素が生まれて命が誕生するまで、の存在を指すのです


ですから、イザナミイザナギという人格神以前は、言ってみれば


元素神 自然神 とでも言うべきなのです



良く、山の恵み、海の恵み、また、自然災害というような言い方をしますが


海山は恵んでなどいません、人がそこにあるものを取っているだけですし、台風は人里を破壊しようとして動いているわけではない


元素や自然には意思はないのです、理の法則にのっとって存在しているだけです


つまりは別天津神には意思はない、欲が存在しないのですから


地球そのもの自然そのもの、元素そのものなのです



何が言いたいかわかりますか?



自分も地球も物はすべて、元素でできているのですから


自分自身も別天津神の一部であると言えるんですよ



ただね、その元素一つ、そうです、鉄、Fe、を例にしてみましょう



鉄はそこら中にあります、私たちの体の中にもある


その鉄の元素、それだけでは大して役には立ちませんが、それが砂鉄や鉄鉱石になって、人の手により道具に変わったとき、それは大きな強い力となる


別天津神もね、そういうとらえ方をしたらいいんです


どこかの誰かが、鉄という分子原子(神)を発見したんでしょうね

そして、それだけでは形を成さないと思って、そこに人型という器を用意して


これが別天津神だ、と、宣言した


よく考えてください



たとえばね、何か鉄でできたモノを


「これが鉄だ!」と、高らかに宣言したとする


それを言い出した人は、その本質を理解していますから、その形にとらわれませんが、それを見ただけの人はどうでしょう?


形が違うというそれだけで、それは鉄ではないと、断言してしまうのではないですか?


どこかの誰かが、別天津神も人型だとしてしまったんですよ

仕方ないんです、当時は人型こそ神だという認識だったわけですから


見たことが正しい、そういう時代だった


そんな時代で、我々の体にもこの道具と同じ鉄が流れているんだと言って、だれが信じます?



神社に行くことが間違ってるとは言いませんが、それは一つの形です


建てたのは大工さんだし、時の権力者が大金を投じはしましたが、権力者が瓦一枚運んだわけではなく、その資金もつまりは、庶民から取り立てた年貢、税金です


権力者は号令しただけ、何も苦労はしていない、のですよ


そこ、ちょっと考えてください



祈るのはいい、それを否定はしません、が


だれだれの神の、メッセージ?


はいそれが成ったとしましょう



でもね、総理大臣や大統領に向かって、その職分にふさわしい動きをしてほしいなら、自分もね、それ相応の立場に立たなければ、その神そのものの言葉にはならないんですよ



神名というのはね、肩書や職名だと思えばいい


その神名にふさわしい自分であるか?です




トランプさんや石破さん、習近平さんだって、そこに行くことができるなら、だれでもが見ることができます


でもね、その職分に応じた動きをしてもらいたいなら、同じ土俵に上がらなければなりません



会うだけならね、会えるんですよ


でもね、会ったとき、こう聞かれる


「で、あなたは何をするの?」と



そのときに胸を張って言えることがあるかどうか?なんですよ



それは相手が人間だろうと別天津神であろうと天津神であろうと、同じです





(樹)





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