クシナダ (樹)
語れと申しましても、この世については何も知らぬ私が語るというのは、山の民が海での暮らしを語るに等しい
そして、ほれ、このように言葉一つをとっても、語り口やこの言葉が違います
「何もかもが違う」と言っても過言ではありません
今はこうして出来うる限り言葉つかいをよせてはおりますが、本来のやまとの言葉は、そもそも違う
まず、文字などありませんでしたし、使い始めたのもカナからです
そこをおわかりいただきます
さて、今回は女子に対しての言葉ですが、いわゆる
「乱れ」があるとは、私は思いません
このように様々なモノや風俗が満ち溢れている中、一部の者を除き、良く律しているのではないかと思っております
世の乱れとは、「正しさ」が始まりです
一人ひとりが己の心にしたがって、人のものを欲しがらず、あるがままに過ごせばよいのですが、そこに万人が守らなければならない「律」というものが存在したときに、それに沿うものは正しく、逸れるものは間違い「悪」となる
つまりです
性一つを考えてみれば、私の時代には夫婦という概念はなく、付き合うという形も存在しませんでした
思うがままに、刹那に、体を重ねていたわけです
そして、それが「あたりまえ」だった
大事なのは肉体ではなく魂、心だった
だから、私もオトタチバナも人柱、生贄としての立場になった
男は戰場で散ることが尊く、女は子を生むときに命をかけ、時には人柱として、刹那に散る、それが当たり前でした
それは庶民王族に関わらず、誰でもがなり得る立場でした
そこに「律」などありませんでした
生きることは、死ぬときまで、という大きな大きな括りが存在していただけ
ところが今は、生きることが正しく、死ぬことは間違い、だと言うことになってしまっておりませんか?
一度、いつ自分は死ぬのか?ということをよく考えてください
なぜ死んではいけないのか?を、考えてください
昔、人柱となることが決まって、そこに立った者の魂がどのような光を発し輝いていたか?
少し考えていただきたい
死ぬことが生きることが、そのどちらが
「正しい」か?ではなく
どちらが光り輝くことができるか?考えていただきたい
生き方があるように、死に方もある
「幸せ」とはそのどちらも大事にしなければならないと、私は思います
(クシナダ)(樹)