見出し画像

たとえ被害者になったとしても

Facebookから懐かしい6年前の過去投稿が
表示されるので、改めて今
書いておきたい事があります。


私がこんな写真を公開したのには
伝えたいメッセージがあったからです。
自分の姿を残しておきたいだけなら
他人に見せる必要はないのです。

これらはメッセージを伝えるために
公開したものです。



この頃、もと性暴力被害者として
講演や研修もやらせてもらっていました。

今も厳罰化とか、MeTooとか
声をあげて活動してる人たちも
たくさん増えてきたのですが
その事にはあまり関心がなく

(そういう事が必要がないのではなく
私の役割として違和感があった)

私が被害を公表することで伝えたい事とは
被害者に対する偏見を壊す事だったのです。


仮に露出の高いファッションが好きな人だから。
仮にダンサーだから、水商売だからなどでも

被害者に落ち度はない事だけでなく
被害後の人生で

あんなことがあったのに今もよく
露出の高いファッションができるわね?
あんな仕事ができるわね?
懲りてないのかな?

ひどい時は実は加害者が被害者に
嵌められたのではないか?などと
囁かれることもあること。


性暴力だけでなく
殺人事件の被害者家族が
その後の日々の中の楽しいひとときを見られて、 
悲しくないのかと言われた話も聞きます。
 

過去にどんな体験をしていても
どこに生まれても、どんな家庭に育っても、
犯罪や公序良俗に反しない事で
自分の好きな事や表現したい事をしていいって
当たり前の事だと思っています。 

私の周囲もそんな人が多いですが
どうやらそうでもない人もたくさんいて
自由になれない人たちも多くいる事がわかったのです。
 

生きていると、人にひどい事をされたり
人にひどい事をしてしまって後悔したり
病気や事故、災難や災害が起こったり
何もない人なんているの?と思います。
 

過去〇〇だから〇〇するのはおかしい。



そんな偏見を恐れて自分のありたい姿から
遠のく必要はないのです。

そんな事を伝えたくて、撮ったものでした。




そして、6年経ちましたが
今後改めてまた撮る予定は
200000000%ありません!😂

今だから言えますが
6年前のこの写真を公開した時。

性暴力の活動をされてる方たちから
引退して活動をやめて欲しいとか
おばさんのセミヌードなんて見たくない、臭い
とか言われて悔しくて泣きました。

被害者なのに今は幸せですと発信すると
加害者が正当化されてしまうから
言っちゃダメという批判も。
 

悲しかったけれど
性暴力のある世界を変えたくて
みんな頑張っているはずなのに…

その人たち同士で叩き合う事が
とっても小さく思えて
私はどうありたいのだろう?

私は何をしているか?ではなく
どこでどんな人といたいか…が大事
と決める出来事でもありました。


戦いたくなんてないんですよ。

ただ、世間の思う被害者像を演じて生きること
それができないだけなんです。
 
私を見て、吐き気のするひとも
いるかもしれません。

だから、とても迷うんですが
正解はずっとわからなくて
もしそうだったとしたら
一緒に答えを見つけて欲しいです。


そして、経験、人種、職業…
それで人を判断する事はとても悲しいことです。

まだまだそんな事が少し残っている世界から
変わる事を願います♪

そんな意味を込めて。
少しだけここに残しておきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?