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大学受験勉強している私に毎晩母は夜食の差し入れ。試験合格後の母のセリフとは??

そもそも、私の過去の話はそんなに明るくはない。
笑えると思っている人には申し訳ないくらい暗い。

くらいくらいって、言葉遊びでわざと重ねてるわけでもない。

意味有のテクニックのように見えたら申し訳ないけれど、そもそも誰も思っていないだろうことを考える無駄な脳みそである。

本題に入ろう。

私の家族は機能不全だった。
そんなネタを語ればいくらでもでてくるんだけれど、機能不全かどうかって渦中にいるときはわからない、わからなかった。


我が家では不満を言うことは禁じられていた。
この家がいかに幸せであるかを説かれた。

でも、ちっとも幸せそうに見えないし、我が子に不満を禁じる割には不満を口にする母、沈んだ顔で幸せ、世界はこんなものと諭されても説得力はなかった。

私の生まれた45年前は今のように多様な世の中でもなかったし、私の両親は戦時中の生まれだから、想像を絶するような光景も見ただろうし、辛かったこともたくさんあったんじゃないかとは推測する。

毎日ご飯があるだけで幸せでしょう?
両親揃っているだけで幸せでしょう?
私たちの時代なんてね(語られる)だったんだから
文句言うんじゃありません!

今でも、確かに毎日ご飯が食べられることは幸せだし、戦時中よりははるかに安全な環境に生きていることも幸せだと思う。


とはいえ、子どもながらに両親揃ってて幸せは違和感があった。

父に怯えたり、喧嘩したりするなら、どっちかだけと暮らした方が幸せなんじゃないか?
そう感じていたけれど「両親がいる=幸せ」を無理やり飲み込んでいた。
きっと私がまだわからないだけなんだろう、大人になればわかるのだろうと。

タイトルの話の前置きがちょっと長くなったけれど、大人になるまで母は少し変わった人だと思っていた。
たまに、何でそんなこと言ったんだろう?したんだろう?と思うことはあっても、殴ったり蹴ったりご飯作らなかったりしないわけだからそれだけで正常と判断するしかなかった。

あれは18歳だった。。。

高校のときいろいろあって中退しているので(これもま辞めた理由がドン引きされるか笑ってもらえるかどちらかだから、覚えていたら書こう)当時まだ日本に数校しかなかったといわれる通信制高校生をやっていた。

高校中退したけれど、私は勉強が好きだし、当時は今とはまた違う夢があったのでそれを叶えてバリバリ働く人やりたいなんて思っていた。

今はそれとは真逆の生活になっているのだから人生ってどうなるかわからない(*^▽^*)

受験したい大学もいくつか選んだ。

通信制高校でも進路指導や相談はあるのだけれど、私の通っていた学校は保護者が同席するかは自由だった。

当時は他県からわざわざ引っ越して1人暮らしで通っている方や、事情があって高校に進学できなかった社会人の方や、高齢の方がたくさん通っていたからだと思う。

両親に相談すると、自分で好きに決めたらいいよと言われた。

父はだいたい仕事の帰りに酔っぱらって帰ってくるし、昼間は仕事がないと寝ているからあまり真剣な話はできない。

それもどやねん・・・と思うけど、母を通して伝えてもらうが我が家のパターンだったから、母に進学希望と伝えた。

「学費の事があるから、志望大学はできれば学費が安い方がええよね?」
私は気を遣って母に確認を取ったのだが、答えはひとつだった。

「気にせずあんたの好きなようにしたらええんやで。頑張りや~~~」

そう答えてくれた母に、なんだ、たまにこの人おかしいって思うことや悩まされることも多々あるけれども、娘の事は思ってくれているのだなと感じられる珍しい機会をうれしくも思った。

そこから私は毎日毎日部屋にこもって勉強をした。


私の通っていた通信制高校は学習のハードルがやや低めだったので、学校の勉強だけでは無理なのはわかっているし、塾に通うお金も私にはない。

両親だって大学の学費で精いっぱいだろうし、高校受験の時も塾なんて頼んでもいかせてもらえなかったから、今回もそうだろうとテキスト買って自習自習の日々。

過集中(のちにアスペルガーと診断されます)になると止まらない私は、食事もせずに勉強を続けてしまうので、母はいつも食事を部屋に持ってきてくれていた。


頑張りや~と言いながら。

なんだ、素敵なお母さんじゃない?私も今これを書いていてそう思う。

いろんな時期があったけど、母がこれほどまでに優しい事って小さなころの記憶をたどってもない。しかも毎日毎日ご機嫌よく私を応援するなんて人が変わったんじゃないか?ってくらい珍しかった。

その甲斐あってか、受験当日も頑張りや~と母に送り出された私は最初の試験に合格。

やった~~~~~~~受かったよ~~~~~~~
そう報告したら、母もとても満面の笑みで喜んだ。

「良かったな~頑張ったもんな~」

母はあまり喜ばない人と認識していたし、私の合格でこんなに笑うんだと嬉しくも思った。

そして、その満面の笑みで母はこう続けた。


「良かったやん、で、学費はあんたが自分で出すんやろ?
うちは知らんで!」


母は満面の笑みでめちゃくちゃ嬉しそうな声でそう言った。

母は満面の笑みでめちゃくちゃ嬉しそうな声でそう言った…

母は満面の笑みでめちゃくちゃ嬉しそうな声でそう言った……


びっくりした。

「え・・?学費の事も前に聞いたよね?好きにしていいって・・・」

何が起こっているのかちょっと把握できない私。

「言ったかどうか覚えてないわ。それに学費出すなんて私言うてへんと思うけど。だってないもん。あんたが貯めてるお金で行くんちゃうん?」

また、母は満面の笑みでめちゃくちゃ嬉しそう声でそう言った

なんだろう・・・

確かに学費を払うとはっきりとは言われていないし、確認しなかった私もいけないのかもしれないけれど・・・

とはいえ、親が学費を払えないなら払えないって伝えてくれないことは不満に思う。

ただ、私にはもう戦意すらなかった。


何が楽しいんだろう?この人(母の事)
毎日頑張っていた私を見ていたよね?
応援してたんよね?

がっかりしている娘を見て、何でにやにや笑ってるん?
私は知らんし~あはは!って何でウケてんの?

うちの母は本当に変わり者で私には理解ができない。
今後は絶対信じないとそう決めた。



大人になった私がこのエピソードを話すと、それは変わっている人のレベルじゃないよ?怒っていいんだよって諭されることが増えた。

でも、最初はそういわれても私もぽやんとした感じで。

なんか私が困ってると嬉しそうなのはよくあったし、それが当たり前すぎて不快だけど変わっているからしょうがないんですよって言い続けていたら、これが親の呪いだとかいうやつかって気づきだした。


育った環境、それが当たり前だと思うもん。
優しい両親がいる人をうらやましいと思っても、自分の環境は変えられないから、自分の環境が「普通」のベースになる。

今なら殴る蹴る以外も暴力だという知識があるけれど、殴る蹴る以外は暴力ではない、目の前で壁にものをぶつけて怒り狂ったり、無視したりすることも暴力だって認められるようになってきたのもつい最近の事で、つまり、私の頭には選択肢がなかったのだから。

違うって言われても受け入れない人もいると思うし、それくらいで暴力っていう風潮だと何もできないと批判する人もいると思う。


まあ、受け入れるか入れないかも自由だし、どんな人生生きたいかは自分が決める事だから

私は思った。

身内であれ、友人であれ、関係なく大切と思う人がアクシデントで困っているときに笑いながら私は知らないよっていう人間にはなりたくないと。

これに気づくまで、私も同じことをしていたから。

人って他人のハプニングが面白いからわざと仕掛けて楽しむこともあるけれど、それは同意のもとであったり、全く知らない相手の事である。

人をいじって笑いを取るとか、素人のやる事ではないと腑に落ちてから、この時の母のように、身近な人を悩ませたり困らせたり嫌なことを言って笑いにする人間関係からはすーっと距離を置くようになったら、優しい人たちと出会えるようになったし、関わることも多くなって自分自身も穏やかで幸せを感じることが多くなった。

うちは殴ったり蹴ったりしていないのだから、両親は人として問題はなく受け入れられない自分があかんのやと思う、と私はずっと思っていたと気づけてから、両親との関係も変わった。

私の場合は理解してくれるとかの感動的なものではなく、私の気持ちがわからないなら一生関わってくれるなと拒否された。

悲しくもなかった。

生んでくれたことは感謝するけれど、だからって言いなりにはならないと決めたから。

母エピソードは、またほかのエピソードでも絡んできたりするので、あ、これはあの娘の不幸を笑う母親だったなと思いながら読むと臨場感も高まるでしょう、きっと( ´艸`)


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