原体験
作曲家になりたくて音楽大学に入った。
特別楽器が上手いわけでも、特別クラシックに詳しいわけでもなかった。
作曲を勉強したかったから、音楽大学に入った。
ありとあらゆる音楽は社会を取り巻いて、ありとあらゆる音楽は人々を熱狂させる。
音楽を作る人になりたかった。
音楽大学に入ったら、「現代音楽」を突きつけられた。
「お前らはここで戦え」と異次元にワープさせられた気分だった。GANTZの如く。
武器を手に入れるべく、「現代音楽」を知らなければならなくなった。
大学図書館でとにかくCDを借り、スコアを借り、知識を入れるのに精一杯だった。今まで和声何巻までやったとか、シャランがどうだとかでマウントを取り合っていた我々は、どれだけ「現代音楽」を知っているかでマウントを取り合うフェーズに突入した。
居酒屋で誰かがデュティユーが好きだという話をして誰かがそれに賛同して、私も「良いよね」と言った。内心は(一昨日CD借りといてよかったー)という気持ちだった。
大学生の頃は「邦ロック」をよく聴いていた。
TSUTAYAでとにかくCDを借り、ミュージックビデオを見て、心を躍らせた。
このバンドのセンスはかっこいい、ダサい、そんなの関係ない。私が好きな曲を好きなだけ聴いて首を振ればいい。
特に9mm Parabellum Bulletが好きだった。9mmと凛として時雨、ミドリの対バンライブでモッシュに巻き込まれて死にかけた。
爆音の中で演者も客も熱狂し体力を使い果たす、そんな場を作る音楽ってやっぱり良いよなと思った。
なんで「現代音楽」は、誰も熱狂しないんだろう。
なんのための音楽なんだろう。音楽ってなんなんだろう。
「現代音楽」、楽しくないな。
そんな「現代音楽」と「邦ロック」を行き来する鬱々とした毎日に光が射したのは、2011年の8月だ。
サントリーホールへ芥川作曲賞選考演奏会を聴きに行った。
芥川作曲賞とは、前年に初演された日本人作曲家のオーケストラ作品の中で優秀な作品を選ぶというものだ。
また、受賞した作曲家は新しくオーケストラ作品が委嘱され、2年後に当演奏会で初演される。
そこで私は藤倉大の「Tocar y Luchar」を聴いた。
藤倉大は2009年に「---as I am---」で芥川作曲賞を受賞していて、この演奏会は委嘱作品の日本初演の場だった。
美しかった。
今まで心がざわつく不協和音の羅列として認識していた「現代音楽」のイメージが一気に吹き飛んだ。こんな響きがあったのか。
音の波の中でずっと泳いでいられそうな感覚の中で、目が覚めるシーンがあった。
弦が一斉に跳ねだした。
その瞬間、聴衆全員の心臓が一歩前に出たように思えた。
明らかに、楽器と人、そこにいた者全員のボルテージが上がった。
誰も立ち上がってない。誰も声を出さず、咳もせず、静かに作品に聴き入っているのに。
「これか!」と思った。
「これだ!」と思った。
この体験は、間違いなく「現代音楽」を学ぶ、作曲を学ぶ、私の希望となった。
そこから、「現代音楽」と言うものが、一作曲家がその世界観を社会に放出したものとして、今までガワだけ見つめていたものに飛び込んでいけるようになったような、「創作物」として鑑賞できるものになったような気がする。
この光の音楽体験は、自分の創作活動の中でどう活かせるのか。
誰もがこの光を手に取りたいがために、今も新しい音楽は生まれつづけるのである。
https://youtu.be/anpJ541aHuc?si=D0MmXP0drY57S9VL