【政治経済】『小さな政府』が”隷属”をもたらす時
ハイエクは『大きな政府は隷属をもたらす』的な事を言った。
ようは社会主義やケインズ主義のように、政府が公金を投入する事によって福祉を充実させたり沢山の仕事を作ったりすると、人々の生活や企業の運営に対する政府の関与度合いが高まって、次第に誰もが政府権力の決定に従わざるをえなくなり人々は自由を失うという感じの話である。
また設計的な経済運営は必ず失敗するので人々に不満が溜まり、それを抑えるために強権政治となるため、ハイエクは福祉国家や経済統制国家のような政府支出の大きい”大きな政府”は専制政治を生みだす『隷属への道』だと主張したのである。
実際、歴史上の”大きな政府”、特にナチスの国家社会主義やソ連型の社会主義を採用した国家では公権力の横暴が目に付き、公務員への賄賂が横行するため、この説は正しいように見える。(ちなみに、これの解決策は民主制が機能する事である)
しかし、よく考えてみれば、ハイエクの危惧する『隷属への道』は『社会に政府支出が少ない小さな政府であっても実現可能である。
ハイエクの想定では市場統制・財政支出により、権力が能動的・恣意的に経済を動かす事によって人々の選択権・自由が失われていくとしているため、財政支出が少なく権力が恣意的に経済を動かせない”小さな政府”では一見ハイエクのいうような『隷属への道』は開かれていないように見える。
だが、市場が冷えきっている状況において財政支出を絞ると、企業やNPO等の経済主体は限られた財政支出(補助金・優遇税率等)を優先的に得るため自発的に権力に迎合するようになる。
一般国民はこのような企業や団体に属し、また、独立していてもその影響力に個人や小規模団体が対抗する事は難しい。
つまり、不況下においては、補助金や優遇を受けた方が有利という経済合理性が国民個々の選択権・自由を圧迫する事になる。
いわば、企業や団体から権力への『忖度』によって人々の選択権・自由が失われる事になってしまうのである。
『大きな政府による隷属への道』は能動的なトップダウン型、『小さな政府による隷属への道』は受動的なボトムアップ型という構造の違いはあるが、権力が社会の成員に隷従を強いるという同じ結果を生じる。
このように、財政支出(経済や福祉への関与)が少ない『小さな政府』であっても、ハイエクの言うような『隷属への道』は生じうるのである。
ちなみに、これは市場の調整機能を絶対視するハイエクの想定では起こらないはずの事象である。
小さな政府における『隷属への道』
『小さな政府』は財政支出を絞る事によって隷従をもたらすが、これは新自由主義的経済による市場冷却と富の一極化との合わせ技により、ますますその真価を発揮する。
ピケティも言っているように、新自由主義的経済は人々の購買力を引き下げ市場を冷却して市場から利益を得難い状況を作り出し、企業のような経済主体は淘汰・統合され数を減らす。
これはつまり、人々が糧を得るための生産手段(働き口)が少数の経済主体に集約されるという事でもある。
この状態では「政府支出を切り詰め、その分配権を握る事により、それを必要とする企業・官庁・非営利法人を一括で制御支配できる」ようになり、突き詰めれば、全ての人々は生きるために権力への迎合、隷属を受けいれなければならないようになっていくのである。
無論、市場が冷え切っているほど、社会や経済が脆弱なほど、政府支出が少なく課税が重いほどに強力な支配力となる。
パイが少ないほどそれを受け取れる対象は減る、企業や団体は競って支配に協力し、そのパイを優先的に得ようとするようになり、その恩恵を受け取れない者は相対的に弱っていくため、経済主体は生き残りをかけて権力に迎合していく事になる。
colabo問題で見えてきた公金分配スキームもこの『隷属の道』の一部といえよう。
これは官公庁や政治家にも同じことが言える。
官公庁が事業を行うには予算が必要になるが、予算を得るためには予算を配分する人々の理解と了承が必須であり、そのためにはこれら『公金分配者』に配慮し、協力する事が必至である。
どのような官庁・自治体も分配者の権威に服する他ないのである。
政治家も自分たちの政策を実現するため、また地元にお金を落としてもらうためには分配者に配慮し、協力しなければならないので同じ事になる。
現代日本における『隷属』の根源
では、この忖度で結びついた隷属関係の大元、根源はどこであろうか?
今日、増税など国民負担率を上げて経済のパイを縮小し、政府支出のパイを分配しているのはどこかといえば、財務省である。
これはつまり、財務省を握る者が日本のほとんどを牛耳れるという事。
自民党が野党時代に積極財政やMMT的な貨幣の理解を発信していたにも関わらず、今日では多数派が真逆の事を言っていたり、
アベノミクスでの金融緩和・財政出動が初期に大きな効果を上げたにも拘わらず、緊縮財政に切り替えて失敗したり、
モリカケ問題で総理自体は特に関係していないのに財務省の責任として追及する事はせずにこれを庇ったのも、全てこれで説明できる。
これまで述べたような財務省と手を組むだけでこれ以上ないほどに政権基盤を盤石にできる仕組みがあれば、政治に”国家国民の便利を達する事によって国民の支持を得る”というプロセスは不要になる。
不況下で予算や補助金をちらつかせれば、国内の影響力を持つ主体の大半を思いのままにできるからである。
この『政権与党が財務省の機嫌を取るだけですべてを掌握できる仕組み』を見れば、よくある『自公政権が悪い、政権交代で変えよう』のような話が絵空事である事が分かる。
他の政党が与党になったとして、新たな政権担当者がこの便利な機構を手放すと思うのは見通しが甘すぎるだろう。
民主党時代にとてつもない円高を放置したのも、財務省に忖度し、彼らの言う事に従っていたからではないだろうか?
財務省としては不景気にその対策をしない・させないだけで、官庁や政治家が忖度してくれ、彼らの職務(だと誤解している)である財政黒字化にも近づき、官僚個人も評価され、以降の人事や天下りにも有利になるのである。
財務省がその権力を手放す理由も利益もない。
むしろ、勉強会を開いたり、御用学者を用意して世論を不景気継続・貧困化・亡国への道へ誘導する事こそが彼らの利益になるのである。
根本の根本原因
現代日本がこうなってしまった根本原因には『戦後日本の国制』の問題がある。
はじめGHQは一般の日本人が反抗しないよう管理統制し、その産業形態や人々の思考を作り変えようとした。
工業などの産業を破壊し、実質的に自衛権を剥奪し、自国の利益だけでなく他国の都合に配慮させる事により、日本を自分達に従属し邪魔になればすぐに抹殺できる都合の良い家畜を囲う『豚小屋』にしようとしたのである。
そして、日本で権力を握る人々を『豚小屋の管理人』として、一般国民を支配させる一方、国民が反抗しないよう豚小屋の中だけで通用する権利を与えて懐柔し、
国民には日本の国家(政府)こそがそれらの権利を制限する悪者と吹き込んで、支配に伴う批判や憤懣を『豚小屋の管理人』に向かわせ、真の支配者である占領者には矛先が向かないようにした。
それはたいてい民主化の名のもとに行われた。
彼らは政府と一般国民、国民同士の結合さえも分断しようとしたのである。
この初期の占領政策の大きな目標の一つは東南アジアの植民地経営の如く、社会に分断を作り、他国の支配に二度と抵抗できないよう国民と社会を作り変える事であった。
これは実際に占領期の国民の憤怒や悲嘆がGHQではなく政府に向かった事からも分かる。
東南アジア植民地でも支配に対する怨嗟は真の支配者である宗主国ではなく、かれらを直接に管理する層(華僑など)に注がれていた。
こうすれば日本国民は決して一まとまりになれず、時を経れば日本人という民族幻想すら自滅してしまうであろう。
占領開始から数年、冷戦の本格化によって、GHQはこうした初期方針を撤回し、日本を経済復興と自衛隊と米軍基地による対東側陣営の不沈空母としての利用へ舵を切ったが、当初の占領政策を利用する東側シンパが強力だったという当時の世相もあり占領当初の国制の精神はそのまま残されてしまった。
そのため、この国制の精神に則って育てられたエリートは今や”自分を『豚小屋の管理人』だと思っている『豚』と化してしまった”のである。
通常、社会をけん引するエリートは選民意識や特権意識を持っているが、それでも、自国の大衆を一応同胞だと認識しているが故に多少の利己や見下しはあったとしても、大衆を含めた国家全体の繁栄に関心を持たない事は無い。
そもそも国家というものは国民が主で政府が従である。建前上、どんな政府も国民の幸福と繁栄を手助けするために存在しており、社会的エリートにはノブレスオブリージュよろしく大衆を教え導き守り支える事が求められる事が多く、実質はともかく本人達も自分はその任を全うしていると思っている。
しかし、エリートが自分を『豚小屋の管理人』だと思い、『豚』である一般大衆との間に完全な断絶が生じている場合、エリートは大衆を含めた国家全体の繁栄には目もくれず大衆を統制する『豚小屋』の維持にのみ関心が向くことになってしまう。
これは彼らの優越性が国民の信頼や尊敬に由来するものではなく、『豚小屋』という構造に由来するためである。
国民は簡単に増やせないが、『豚』は移民で簡単に増やせる。
(出生数は経済的要因も大きいが国民自身の意思・世相の影響も大きく、帰化も本人の帰属意識が必要になってくる一方、経済的利益目的の移民はそういったわずらわしさなく増やせる。豚小屋視点で見ると利用用途からして両者は同じ存在である)
結局のところ、日本のエリートたちは自分達のよりどころであり権力の源泉である”容れ物”には執着しても、中の『豚』が凍えようが飢えようが死のうがどうでもよくなってしまっているのである。
治世者と被治者の断絶がもたらす苛政、つまりはモンテスキューやバークのいう所の”専制”である。
かつて植えられた断絶の種を除かなかった結果、日本のエリートたちは国民を顧みない”専制”によって国を傾け、互いに無関心な国民は亡国が進むままに任せている。
戦後の日本国民は自分たち自身の手で自滅の道をたどってしまったわけである。
分断と忖度
そんな豚小屋の住民たちに言う事を聞かせるには『限りある予算』というロジックが最適である。
これだけで不景気には財政支出を増大させるという高校教科書レベルのセオリーを無視させられるあたり、財務省の力は凄まじいものがあるが、こうした前提を与えられれば分断され孤立した現代日本人は真っ先に切り捨てる先を探す。
例えば、利用者の少ない電車の路線、まだ功績を上げていない若手研究者、中小零細、氷河期世代、アニメーター。
こうした状況では、企業や団体、そして個々の国民は切り捨てられないために一層の『忖度』を行うようになる。
生き残るためにはその自由を引き換えに、財務省・政党・行政・上司など各種権力に迎合し忖度しなければならず、それを厭えば社会から落伍し再起不能になる。
ブラック企業が大成したのもこうした個々の国民がした忖度の一種とみれなくもない。
また切り捨てられる恐怖・不安は投機や保険などへの関心に結びつき、そうした業界は利益を得ることが出来る。
例えば仮装通貨の取引所とか
「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」という意味の『ハンロンの剃刀』という言葉があるが、野党時代はまともな事を言っていた政治家が与党に返り咲くと急にアホになったり、総裁選の時は国民の所得倍増を言っていた人物が当選後に撤回、増税で国民負担率を上げるというのは無能の一言で説明できない。
日本が不景気になればなるほど、貧困化すればするほど、不安定になればなるほどに得をする人々の実在と彼らの行動は、
『ハンロンの剃刀』の”たいていの場合、冷静で客観的な評価をすれば悪意は見いだせない”という常識的な意見を打ち負かす『ハンロンの剃刀負け』ともいえる事態を想起させざるをえないのである。
補足:不景気対策
ちなみに、景気対策に国債発行を充てるのを批判する人が居るが、ニューケインジアン・ポストケインジアン批判にリカードとかを出してくるところ、新古典派経済学はもはや神の見えざる手への信仰を固めるための神学になり下がってしまったとみえる。
MMTを前提とせずとも莫大な財政赤字を数十年・数百年かけて返済した例はいくつもある。
累計も含め財政赤字の大きさは『不景気には十分に大きな財政政策を打てばいい』という常識的な方策を放棄する理由にはならない。
また財政支出の額を見て現代の日本が積極財政だと勘違いしている人もいるが、
財政支出が多いか少ないかは経済規模に比例し、状況によっても変わる。つまり、需要不足のデフレ不況が続いたという事は財政支出が経済規模に対して少ないと言い切ることが出来る。
それにもかかわらず、常識的な方策を無視するのは、経済学派への信仰ないし権力への『忖度』があると見ざるを得ないのである。