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【郷土史】大和中津氏と逸話【氏素性】
1.大和中津氏
奈良県は大和郡山市長安寺町には「中津」という苗字の家が多数ある。
中津氏は苗字帯刀を許された士族であったが、その本家筋にあたるのは『上嶋氏文書』で有名になった伊賀の上嶋氏である、
さらに、その祖は服部氏といわれているが、古文書に見られるように源義経の娘婿である源有綱を祖とする自称の系譜を持つ。
伊賀の服部氏自体、出自があやふやであり、独自の自称も総合すると桓武平氏(家長)・清和源氏(有綱)・土豪・神官のどれかを出自とする。
自称の系譜は不確かなものであるが、吾妻鏡を見ると一般に上嶋氏の出身氏族と見做されている服部氏が、自称上の祖である源有綱を追討したことが書かれており、
「服部氏が有綱の身内を保護した」あるいは「服部一族から有綱の血統を弔う家を出した」という風に両者になんらかのつながりを考える事が出来、とにかく浪漫はある。
源氏側なのに鎌倉幕府の成立と同時期に没落したという昔からの家伝があるという親族の証言から見て、このストーリーは少なくとも明治の頃には同祖の一族間で共有されていたと考えられ、この自称自体は古文書発見以前から行われていたようである。
伊賀の上嶋氏から分かれた中津氏が400年に渡って大和郡山に根付いたのは、小泉藩の祖である片桐貞隆とその子孫に仕えたためである。
その次男、片桐貞晴が3000石を分与され旗本となった際には一族が分かれ、片桐大名家と片桐旗本家の両方に仕えるようになった。
片桐旗本家の旗本陣屋も大和郡山市内にあり、両系統は現代まで同市内に居住し続けている。
2.長安寺の中津
長安寺町の「中津」に話を戻すが、この地に住まう沢山の「中津」の内、先ほどまで述べた大和の中津氏の血統を継ぐ家はほとんどない。
なぜ、分家が乱立したわけでもないのに現代のように多くの中津姓の家がこの地にあるかといえば、そのほとんどは明治維新の際、当地の中津家を慕って、同じ氏を名乗る許しを得た人々である。
この地には代々、小泉藩の方に仕える中津家の屋敷があり、その周囲の農民たちから尊敬を集めていた。
明治、創氏によって、それまで氏の無かった人々も氏の名乗りを許されるようになった時、人々は中津の家格にあやかって中津の氏を名乗る事の許可を求めたのである。
創氏の際、古くからの名家が地元の人々が同じ氏姓を名乗らないよう苦慮したという話はたまに聞くが、これを自ら許したという例は珍しく、当主の人格が偲ばれる。
3.旗本家の中津
長安寺の中津から分かれて片桐旗本家に仕えた中津は旗本陣屋周囲に居住したが、旗本家知行3000石のほとんどは別地方に存在し、旗本陣屋のある小さな一帯以外周囲は全て他家の領地という珍しい地域であった。
この小さな集落は家の数から古く豊浦八軒と呼ばれ、狭い範囲に旗本陣屋、家臣の屋敷、牢屋や刑場など旗本家の領主としての統治機構が集約されていた。
こちらの系統は家督相続で問題を起こしており、子の居なかった兄が弟に家督を譲る約束をして隠居所まで作ったのに、子が生まれた途端それを反故にした事から、豊浦の中津は古くから二家存在している。
明治の半ば、兄の系統の家で婿養子をとるも、村寄り合いでの立場が弱く、周囲の家々に田畑を毟り取られ、死後、無念から化けて出たらしい。
大正から昭和初期に活動した中津市治(いちじ)は奈良県知事の奥田良三の親友であり、早世したが私有地に実験場を作り農業技術の研究を行っていた。
また昔話として次のような話が伝わる。
昔話「十手の房紐」
昔、豊浦の中津家が何かの拍子で奈良奉行の娘を娶ることとなった。
奉行の娘はつつがなく嫁入りしたものの、座敷にある十手を見て即座に逃げ帰ってしまったという。
これは奉行所の与力や同心でないのに十手を持っているのは目明し、つまり、捜査に協力する犯罪者というのが常識だったからである。
娘が奉行に嫁ぎ先に十手があったことを告げると、奉行は娘に十手の房紐の色を尋ねた。
娘が紫色であったと答えると、奉行は「房紐が紫の十手は目明しのものではなく、功績を挙げた者に与えられる物だから安心しなさい」と言い、離婚の危機を免れた。