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ドキュメンタリーとパリピ急須
先日手に入れた、古い九谷の急須がかわいい。
朱色の背景に緑のマリモのようなもの、そして謎の人物たちが魚に乗って遊んだり、文を読んだりしている様子が描かれている。
極楽浄土的な多幸感を感じるので、私は心の中でこっそりと、この急須を“パリピ急須”と呼んでいる。
人物が描かれたうつわは好きではなかったけど、このパリピ急須と出会ってから、うつわの柄として閉じ込められた人物たちにひたすら想いを馳せている。
何故、鯉に乗っているのだろうか?
男なのか、女なのか?
どういう肩書きで、どういう生活をしている人なのか?
きっとそれぞれ生活があって、楽しいだけではなく色々あるんだろうな…、
その営みの一瞬を切り取り、描いているだけなんだろうな…と、想像を巡らせてしまう。
お花柄や幾何学模様だと、ここまでの没入感はない。
人は人に興味がある。
美しいと思ったから、急須に描こうと思ったのだろう。
ネットフリックスで「あいの里」という恋愛リアリティショーをみた。
参加者は35歳〜60歳。キラキラしない大人の恋愛番組だ。
沖縄の古民家で共同生活を送り、告白してカップル成立となれば相手と共に、恋が実らなければ一人で古民家を出るというシステム。
三角関係になったり、嫉妬で苦しんだり、熱い友情が芽生えたり、悲喜こもごも色々起こるのは、他の恋リアと一緒。
だけど、若者同士の恋リアでは絶対に出てこない、妊活や過去の結婚、娘や息子、浮気、闘病体験、死にたかった時のこと、、、などの話題がぽんぽん出てくる。
そしてみんな老眼で、基本身体のどこかが痛い。
子どもがほしいから一刻も早く結婚したい人、子どもは育て終えたから人生のパートナーがほしい人、
色んな立場、経験をしている人たちが、ひとつ屋根の下で暮らす様子を、カメラを通してチラ見させていただいた。
ショーだから、番組として成立させるための演出は入っているだろうけど、その場で語られる言葉はその人の人生から紡がれたドキュメンタリー。
それぞれの大変さ、苦しさ、生きざまがあった。
私がどうしようもなく惹かれてしまうのが、シーズン2のエピソード1から出演している、35歳のあやかん。
「相手から好きになってもらいたい」と語る彼女は、子どものころからのコンプレックスから顔の輪郭を髪で隠し、露出しないように長そで長ズボンで過ごしていた。
何かあればくよくよ泣き、情緒不安定気味で、自分の不幸を全て他人のせいにしている節があった。
しかし彼女は、エピソード1の時には想像もできなかったような、清々しい笑顔で古民家を去る。
「完ぺきな人間なんていない」という、素敵な言葉を残して。
この特殊な共同生活で、他人の嫌な部分を見まくり、嫌な部分でまみれてるはずの他人に励まされ、支えられている自分に気付いたからだと思う。
人も自分も、完ぺきではない。
完ぺきではない他人を好きになり、完ぺきではない自分を好きになってくれる人がいる。
人の営みは美しいなと思う。
知ろうとしなければただの人だけど、相手に近づき関わろうとした瞬間に、見えてくる美しさがある。
キレイなだけでない、完ぺきではない、ありのまま。
パリピ急須でお茶を飲みながら、赤の他人の恋愛模様を見ていた。
誰と誰がくっつこうが、本当にどうだっていい。
この番組がなかったら関わる事のなかった他人同士が、自分の事を知って欲しかったり、相手の事をもっと知ろうとしたりしてくれたおかげで、
私は沢山のキラキラした瞬間をコタツから一歩も出ずに知ることができたのだから。
もう一度、パリピ急須を眺めてみる。
急須の中の人物たちは、何を考えているのか全くわからない。
急須の外の私は、誰かにわかってほしいし、誰かのことをわかりたい。
結局わからないのだろうけど、わかろうとすることで、世界はもっと美しくなるはずだから。