ドクダミとあん
職場の、おそらく何十年も放置されている花壇に、ドクダミが沢山咲いていた。白くて小さな花が、一斉にブワッと開花する様子はなかなか見応えがあり、「あ、春はもう終わったんだな。」と、ポカポカ陽気にようやく慣れてきた私を奮い立たせた。
息子が風邪を引き、会社を休んだ数日間の間に草刈りが入り、ドクダミは8割ほど刈られていた。
なぜ“8割”なのかというと、草刈りをした人の感覚で雑草ではないと判断されたユリやムスカリなどは残されており、それらのまわりのドクダミは生き残っていたからだ。他にも、ツツジや紫陽花など背の低い木々の周囲も、刈りが甘かった。おかげで、綺麗サッパリ刈られるという事態にはなっていなかった。
なんとも人間味のある草刈りだなあと思いつつ、疑問に思ったのは、人は何をもって雑草と雑草ではない草花を区別しているのだろうかという事。
ユリやムスカリのような美しい花は、雑草ではないのだろうか。ユリもムスカリも、けっこうな繁殖力だと思うけど。ユリやムスカリの事が好きではない人もいるだろう。
美しさでいえば、ドクダミだってかわいい。ハート型の葉に、十字の白い花は、なかなかオシャレな造形だと思う。
わかりやすい美しさのユリが残されて、世間一般的に雑草とカテゴライズされているドクダミは、いくら可愛らしかろうが薬効があろうが、それはもう雑草にしかなれないのか…、と薄ぼんやりと落ち込む。
ドクダミの事が憎くてしょうがない人なんて、おそらく少数派だ。なんとなく他の人も嫌いっぽいから嫌い、なんとなく駆逐すべきものだとカテゴライズして、なんとなく刈られていく。
なんだかドクダミは私のようだ。稼いでいるわけでも、良き嫁にも妻にもなれず、誰からも求められる事なくひっそりと生きている。
ただひっそりと生きるのだって、この穏やかな日常を手に入れるだけでも大変だった。
離婚にまつわる行政のなんやかんやある手続きで受けた言葉や印象は、「あ、国は離婚なんてしてほしくないんだな。」と、嫌でも気づかせにきた。
国も行政も、私が私らしく生きるのを求めていなかった。その傷はなかなか癒えず、たまにぶりかえす。“国が求める”に焦点を当てたモノサシがあるとするならば、私は真っ先に駆逐されるだろう。なんとなく、知らず知らずのうちに、何がそんなに嫌なのか、困るのかすら曖昧なまま。
それでもほんの少ししか落ち込まないのは、近所に庭一面がドクダミ畑になっている素敵なお宅があるからだ。この家の主はわざとドクダミを残しているに違いない。ドクダミと一緒に、小ぶりな紫陽花も少しずつ花を咲かせている。きっと、梅雨が近づくこの季節に、庭が素朴な野の花で彩られるようにという意識が働いているに違いない。好きな物を好きなように愛でているだけで、無意識の風情が生まれる。風情のある庭に、無慈悲な草刈りの鎌は似合わない。
“私たちは、世界を、見るために、聴くために生まれてきた。
だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ。”
私の座右の銘を挙げるとするなら、映画「あん」の中で樹木希林さんが呟くこのセリフだ。
今日、数年ぶりにこの映画を見返した。
数年前にはトキメクことがなかった若かりし頃の太賀が出てきて悶えた。若いころから素晴らしいお姿をしていらっしゃる。
太賀の事はさておき、数年前には特に感じ入る事のなかった部分に心が動いた。
あんを炊くことは、小豆に対するおもてなしだと、樹木希林演じる徳江さんは語る。
灰汁を抜き、ゆっくりと蜜をなじませる過程は、小豆とおしゃべりをしているかのようだ。小豆がどのような世界を見てきたかを教えてもらう。それがあんの味わい、香りとなる。小豆の言葉を無視して、全自動的に煮立たされ味付けされた業務用のあんは、語るべき言葉を抹殺されたもののように見えた。籠の中のカナリヤも。ビールをこぼされてしまった絵本も。
例え刈られても、抹殺されても、ドクダミは勝手に生えてくる。その場の誰からも求められずとも。
ドクダミが嫌いな人は、草刈りの鎌を振るうだろう。根絶やしにしようと除草剤を撒くだろう。
それでもドクダミは滅びない。深い根は何があっても生き延び、来年も、再来年も花を咲かせる。
そして、世界のどこかには、ドクダミが無性に好きな人もいる。私はそれを知っている。
語るべき言葉は滅びない。小さな声でも必ずどこかに届く。小さな声を聴くことが出来るのは、最高の仕事をする人だ。香り立つ上品な甘さのあんを、50年も作り続けてきたような人。
映画のラストで、主人公の千太郎は声を出す。伝えたかった事を、世界に向けて伝える。その声は、ちゃんと届く。満開の桜の下で、彼の作った“彼の”どらやきは、求めてくれる人をちゃんと見つける。誰の声も聴こえない、誰にも聴いてもらえないという絶望が、春の陽気にふわりと溶かされていく。
人の気持ちも、世の中も少しずつ変化していくものだけど、桜の花は毎年同じように咲き、同じように散っていく。芽吹く桜も散る桜も、美しさと儚さは変わらない。
キレイなものを見て、キレイだなと思う部分は変わらずにいたい。この世の全てのものには、語るべき言葉があるのだから。
小さな声を聴き逃さずにいよう。そしていつか、最高の仕事ができたらいいなと思う。“国が求める”モノサシでは測る事すらはばかられる、清らかで純度の高い仕事がしたい。
明日は満月。どらやきのように、まんまるくてぼってりとした満月が見えるといいな。明日の満月は、私にどんなことをつぶやくのだろうか。