動きたいというエネルギーは美しい
魔女の宅急便で、キキが急に箒で空を飛べなくなるシーンがある。「キキが恋をしたからだ」とか、「生理になったからだ」とか、キモイ考察がされているけれど、飛べなくなったら飛べなくなったでいいじゃんか?と、ずっと思っている。そこに理由は必要ですか?ただなんとなくモヤモヤして、何にも出来なくなる事ってあるじゃん?そういう事じゃない?
それでも、当たり前に出来ていた「箒で空を飛ぶ」という事が出来なくなったキキは、さぞかし辛かっただろう。
ウルスラ姉さんと、「魔女は血で飛ぶ。パン屋にはパン屋の血、絵描きには絵描きの血がある。」と、ぽつりぽつり語り合うシーンを、私は涙なしでは見ることが出来ない。それくらい、考えるというゾーンにすらなかった事を考えざるを得なくなる時って、ひたすら悔しいし悲しいし、苦しい。
モラトリアム期って10代ではなくても定期的にやってきて、その時は無視をしていても「また来たよー☆」と再来する。ああ、悔しい悲しい苦しい。
それでも、どうにかこうにか乗り越えようとする、そのエネルギーが生きるって事じゃない?とか、青春っぽい事を考えてしまう。
思春期の課題は人生の課題だし、子ども時代の悲しみは人生の悲しみだ。結局みんな、同じ所をぐるぐるぐるぐる回っている。死ぬまでずっと。
入善の下山発電所美術館で、私は同じ所をぐるぐる回ってきた。
井口雄介さんの、空間を最大限に使ったどでかい作品を、“漕いで”きたのだ。
美術館、といっても、下山発電所美術館は大きな展示空間が一つしかない。水力発電所をリノベーションした美術館で、常設作品もない。主に現代美術作品を展示する、ドデカいスペースといった感じ。
スペース全体に、その巨大な作品はあった。一見、風車??と思ったが、梯子を登って人が乗れるようになっている。魔女の宅急便で、トンボがプロペラのついたチャリで飛ぼうとしていたアレを、巨大にしたような作品だった。
私は高所恐怖症だ。高いところなど死んでも行きたくないけれど、この作品は漕がねばわからない。恐怖よりも鑑賞したい欲求が勝った。だから、漕いだ。
ラピュタのパズーのように梯子を登り、歩くたびにゆらゆらするデッキを歩き、先端のチャリ部分に跨る。けっこう重たいペダルを「うんとこしょ」と踏む。ゆっくり回り出した、作品。私を乗せて、この奇妙で巨大な木造の装置は、私が漕げば漕ぐほど回る。
チャリは前に進むものだけれど、この作品はただひたすらその場でぐるぐるまわり続けるだけだ。
デカいだけでどこにも連れて行ってくれない、そこそこ重たいペダルを、汗だくになりながら必死に踏む。そこに作品があるだけで漕がずにはいられない。その、漕がずにはいられないというエネルギーが、きっとこの作品の核だ。道路の縁石の上を歩かずにはいられない五歳児と同様、ついつい、自分の中の可能性を試したくなってしまう。
重たいペダルを漕ぎ続け、私の太ももはガクガクになった。梯子は登る時よりも、降りるときのほうが怖かった。4メートルの高さをぐるぐる回ってもどこにも行けなかったけれど、そのわずか3分足らずの時間を、やっぱり経験して良かったと思う。
私がぐるぐるまわっているのを、友人と友人の子どもと、私の子どもが見ていた。どこにも行けなくても、見てくれている人はいるのだ。
動きたいというエネルギーは美しい。
動きたい、動かしてみたいという欲求を生み出すのも、きっと芸術の役割だ。同じことを何度も繰り返してしまう人生で、それでも動いている事自体が、尊くて眩しい真夏の光のようなものなのだと思った。