シアタールームで一緒に映画を
親しいはずの人と、話が通じないという事があった。
通じていたと思っていたけど、実は、私が言った全てが何も通じていなかったのだ。
その人は、ひたすら私の足りていなさを指摘した。
結婚を失敗し、お金もなく、稼いでいない男と一緒にいる私。
世間の常識とどれだけ外れているかばかりが不安で気にさわり、私がどんな人間かよりも私に何が足りていないかが気になっているようだった。
私に足りていないものなど無い。
私なだけで完璧なはずなのに、と、思う。
一生お金が無い状態で良いはずはなく、お金はあるほうが良いに決まっている。どうにかしようと努力はしている。それでも足りないものは足りないのだろう。
その足りない部分を補えるような男と一緒にいないといけないらしい。
そんな奴はどこにもいないのに。
お金はなくとも、自分の好きな事は諦めたくないから、芸術祭をやるって決めてやっている。
やりたい奴は、お金がなくても、1人でもやるのだ。本当に、心の底からやりたいならば。
貧乏の泥水を啜りながらも、自分を見失わずに、自分を卑下せずにやりたいことができるくらい、私はタフだ。なかなか私のような人はいないよ、とすら思う。
そのタフさも、私がどれだけ世間の常識から外れているかというモノサシで計れば、なんの価値もないらしい。
それでも、芸術祭では素晴らしいアーティストに恵まれた。
私の言いたいことは、芸術祭に参加してくださるアーティスト・スタッフには全て伝わっている。
伝わっているだけではなく、それぞれのベストパフォーマンスを発揮して下さっている。 ぶっちゃけ私は何もしていない。何もしていないのに、何もかもが良い方向に向かっている。ありがたいなと思う。
このネット社会で、3000部刷ったチラシはほとんど捌けた。チラシを手に取って下さったという事は、私の言いたいことに興味を持って下さっているという事だと、少しうぬぼれてみる。
私が話をするべきなのは、今の私の完璧さを理解してくれる人たちなのだろう。私の足りてなさしか見えない人に、何を言っても伝わらないのだ。悲しいけれど。
それがどんなに近しい間柄でも。
誰かと話が通じなくなったという事を、
「縁が切れたんだね」とか、「あなたの人生のステージが上がったんだね」とか、そんな言葉で形容される事がある。
でも、それらの言葉のどれもが、やっぱりしっくりきていなかった。
誰かと縁が切れるなんて事、そもそもあるのかな、くされ縁、血縁関係という言葉もあるし..とか、
ステージが上がったなんて、自分が上から目線な気がして気持ち悪いな..とか、モヤモヤと考えてしまう自分がいた。
ようやくこのモヤモヤが晴れたのは、先日コナンの映画を観るために、ショッピングモールの映画館に行った時のこと。
10ほどのシアタールームに別れていて、いくつもの映画が上映されている。
休日の映画館はそれはそれは混んでいて、その雑踏とポップコーンの匂いのなかで、私は静かに「これだ!」としっくりときていた。
縁がある人、その時に一緒にいられる人とは、同じシアタールームで一緒に映画を観ている人、なのだと思う。
逆に、「ああ、もうダメだ。話が通じない。」という人とは、同じ日、同じ時間に同じ映画館に居合わせたとしても、絶対に同じシアタールームには入れない。同じ映画を一緒に見ることはない。
見ている世界が違うから、話が通じなくて当然なのだ。
色んな人がいる。
同じ日時に、同じ映画を観ている、只でさえ縁がある人の中にも、色んな人がいる。
それでも、同じ映画を観ていれば、同じ世界を見ていれば、わかりあうことはなくとも話は通じる。
わかりあえない部分が拒否や否定にならずに、ただ、話が通じる。
私は息子とコナンを観たけれど、息子は怪盗キッドがイケてると思い、私は好きなキャラが出てこなかったので残念だった。そういう事を、一緒に話すことができる。
話が通じた瞬間は、何よりも幸せだなと思う。
芸術祭では、映画「目の見えない白鳥さん、アートを見にいく」の自主上映会を開催する。
2日間・計3回の上映の中で、いや、この芸術祭の中で、沢山の方に「話が通じた!」瞬間が訪れると良いなと思う。
言葉に出せても、出せなくても、その時に集った人たちとの観賞体験が、幸せな瞬間で積み重ねられることを願っている。
話が通じる相手には、きっと巡りあえるよ。