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元・修行僧が案内する「天空の聖地・高野山」大門・大伽藍 #1

YouTubeに「元・修行僧が案内する高野山」の動画を公開しました。

先日、高野山が配信している「高野山の法話」というYouTubeに出演依頼をいただきまして、収録のために高野山に行ってきました。

「高野山の法話」撮影風景(2つの法話を撮影しましたが、1つは屋内でした)



いつもご覧いただいている皆さまに、
私が修行した場所である高野山をご紹介したいと思っておりましたので、
自分でも動画を撮影してきました。

現在では長野のお寺に戻ってきていますので「元」にはなりますが、
修行僧目線での高野山をご案内したいと思います。
・・・とは言え「ホーム」である高野山。
語りたいことは山のようにあります。(「山と仏」ですからね)
動画では全部をご紹介できないので、noteに書くことにしました。
動画と合わせてお読みいただければ幸いです。

高野山の表玄関・大門

高野山・大門

高野山には「高野七口」といって、7つの入口がありました。その表参道とも言うべきルートが麓の九度山にある「慈尊院」から町石道を通って登ってくるルート。
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」にも登録されている道です。
その道を歩いて登ってくるとこの大門に出ます。

修行時代、この町石道を歩いたことがあります。
1町(109m)ごとに町石という標識があります。
五輪塔という形になっていて、そのものが仏さまであると習いましたので、
町石ごとお経を上げながら登りました。

町石。梵字が刻まれ、五輪塔という形になっています。

もう少しで高野山というところが急登。
同期の修行僧たちと汗をかきながら、必死に登ったのを今でも覚えています。
その急登を超えると大門。
森の中から急に景色が広がって、壮大な大門が見えたときには本当に感動しました。

今の門は1705年の建物。
昔は大鳥居だったそうです。

高野山の修行僧は、この門の正面から出入りしてはいけないというしきたりです。
高野山の僧侶は、論議(質疑応答をしながら仏教の教理を学ぶ)を通じて勉強をするのが伝統的な形です。
今ではそんなことはありませんが、昔はこの論議に勝つことが高野山の学僧になるための登竜門でした。
負けたものは、高野山を追放になったそうです。
このとき、仲間たちからお餞別をいただいて、大門の正面から高野山を下りることになってますので、
正面から出入りをするのは高野山を下りるときのみ。
平素は正面から出入りをしない、というのがしきたりです。

修行の中心地・大伽藍

高野山には中心となる場所が2つあります。大伽藍(壇上伽藍とも言います)と奥の院です。
奥の院は、弘法大師さまの御廟がある場所で、謂わば「信仰の中心地」。
大伽藍は、高野山の年中行事や儀式のほとんどが行われる場所「修行の中心地」です。
今回はその大伽藍をご紹介します。

大伽藍


大伽藍に入る門・中門

大伽藍の正面には中門という門があります。
平成27年に行われた高野山開創1200年記念大法会の記念事業として再建されました。
私が修行していたときには、再建前で礎石しかありませんでした。
正面の二天(持国天・多聞天)は、根本大塔に客仏としてお祀りされていました。
なので、中門にお祀りされている姿を拝見しますと感慨深い思いがあります。

中門


弘法大師と平清盛が対面した桜・対面桜

中門の奥にある桜(冬なので桜に見えないかもしれませんが)は対面桜と言います。
平清盛と弘法大師が対面したので「対面桜」。
こんな物語があります。
清盛公の父、平忠盛が焼失してしまった大伽藍の金堂・大塔等再建の奉行となります。清盛公が引き継いで無事再建されるのですが、
弘法大師がこの桜に現れてお礼を言ったというお話です。
この話には続きがありまして、弘法大師は続けてこのように言いました。
高野山の神様、高野明神さまの良き友人である広島の厳島神社の厳島明神さまも困っていらっしゃるので、ぜひ造営して欲しい。
そうすれば平家の名誉は天にも登るであろう。
しかし、平家が奢り高ぶれば、
その名誉は地に落ちるであろう。
と、予言されたというお話です。
そこで清盛公は厳島神社も造営の奉行をお務めになるのですが、
その後の平家がどうなったかは、皆さんご存知のとおりです。

小さな桜ですし、冬だとわかりにくいですね。


高野山一山の総本堂・金堂

金堂は、高野山一山の総本堂です。
新年の修正会、お彼岸の彼岸会、お盆の不断経など様々な行事がこの金堂で行われます。
このお堂、そうは見えないと思いますが、鉄筋コンクリートです。
これには深い理由があります。
昭和元年に金堂は火事で焼失してしまいます。
再建するときに、もう二度と火災で焼失しないようにと、
当時最新鋭の工法であった「鉄筋コンクリート」工法を使って建立されました。
高野山を代表するお堂ですので、それとわからないように木を貼ったりなど工夫をこらしてあるそうです。
以前、高野山の学芸員さんが、
昭和期の建築史に残るものなので、いつの日か文化財になるときがくる、とおっしゃっていたのが印象的です。

金堂


ご利益満載・六角経蔵

鳥羽上皇の皇后「美福門院」が上皇の菩提のために、紺紙金泥(紺色の紙に金泥で書いたもの)の一切経とそれを納める経蔵を寄進したのが始まりです。残念ながら、今の経蔵も再建(昭和8年)。
このときに荒川荘という荘園を寄進したので、
お経は「荒川経」、経蔵は「荒川経蔵」とも呼ばれています。
下の基台が回るようになっていて、一回まわすと中のお経を一回読んだのと同じ功徳があると言われています。
これは仏さまがお説法をすることを「法輪を転ずる」と言うことに由来します。
チベットにある「マニ車」なども同じ原理です。

お寺の中にある立派な神社 御社・山王院

大伽藍の一番奥には御社(みやしろ)と山王院(さんのういん)があります。
高野山は高野明神さまのお許しによって開かれておりますので(この物語は次回「三鈷の松」でお話します)、弘法大師さまは高野山で一番最初に建立したのがこの御社であると言われています。
その手前にある山王院は、御社の拝殿となる場所です。
中には高座があり、問答をする作りになっています。
これには由来があります。

山王院

高野山が大変荒廃した時期がありました。
高野山で最高位の僧侶である「法印」さまの夢枕に高野明神さまがお立ちになります。
「最近の高野山は荒れるに任せてとても嘆かわしい。このままだと高野山を守るのを止めて高天原に帰ってしまうぞ」
目が覚めた法印さまは真っ青になります。そこで、弟子を奈良のお寺に派遣し、当時奈良で盛んに行われていた「論議(問答をしながら仏教を学ぶ式)」を持って帰らせます。
御社の山王院にて、この論議を披露しますと、
明神さまはいたくお喜びになり、少しの雨を降らせた・・・。
というお話です。

御社

この論議は、現在でも年中行事「竪精(りっせい)」という行事として今も続いています。
高野山のお寺の住職は「精義明神」、あるいは「竪義明神」という役務が当たります。
竪精では、この論議を質問に答えたり、教義を正したりという役を務めます。
問答は夕方から始まって深夜0時前に一度終わり、休憩を挟んで朝方まで続きます。
もちろん草稿もあるのですが、それでも夜通しの問答は大変なお役目です。
お務めになった院家さま(高野山で若手住職の呼び名です)に聞きましたら、草稿ができてから毎日読み込んで勉強したと言っていました。
私も院家さまの伴僧(お供の僧侶)として、出仕したことがあります。
長丁場で、座っているだけでも大変でした・・・。
山王院は電気がなくて、明かりはろうそくの明かりのみ。
すごく幻想的で、本当に明神さまがお越しになっているような感じがしました。

山王院の入口にかかる看板


それでは次回です。

元・修行僧が案内する高野山。
いかがだったでしょうか。
高野山で習ってきたこと、修行の中で体験したことをお話しながら、
一緒に歩いているような感覚でご案内していきたいと思っています。
次回はこの続き、高野山の象徴のような建物「根本大塔」や
「弘法大師様のお姿」がある御影堂など、
大伽藍の重要なお堂をご案内いたします。

みなさま、どうぞお楽しみに。

小雪童

次回ご案内する風景です。お楽しみに。


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