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なぜか教えられない日本人惨●の通州事件

南京プロパガンダ

捏造の【南京大●殺】のことは、ノンポリであろうが、ほとんどの日本人が知っている。

日本の歴史教科書ににも載せられているし、中国共産党は毎年、南京大虐●記念と称して、記念行事を南京の博物館前で大々的に行っているので、海外からの大きなプロパガンダの声が嫌でも耳に入ってくるからだ。

しかし、この事件は、日本を「戦争犯罪国」として貶めるために、中国共産党とアメリカが共同で作り上げた大きな捏造の物語であることは、歴史通の日本人の間は少しづつだが広まりつつあるのではないだろうか。

この南京の嘘については記事を書いているので、いまだ詳しく知らない人はこれらの記事をぜひ読んでみて欲しい。

さて、今日は南京と比べたら、圧倒的に認知度が低い「通州事件」(1937年 7月29日)について書きたい思う。

伝えられない日本人の歴史:通州事件

通州とはどんな場所だったのか?

通州はその昔、北京の東近くに位置する大きな城壁と城門のある街だった。今ではそれらの城壁も城門も全て取り壊され、今は跡形もない街になっているが、そこには戦前、たくさんの日本人居留民が住んでいた。

なぜそんな所に日本人がいたの?と思うかもしれない。

そして、チャイナはその事実を持って、日本が侵略していたからだとプロパガンダを打っているが、真実はそんな簡単なものではない。

日本人含め、各国の外国人は国際法に則って居留していたからだ。

義和団の乱の混乱を収めきれなかったチャイナは8カ国連合軍に派兵を要請した。その戦後処理として北京議定書(1901年)というものが交わされたからだ。

だから、日本軍だけでなく、各国は自国の軍隊を置いて、自国の居留民を守る駐兵権が認められていた。

だからその頃は、中国に派遣されていた日本兵や、中国で商売をしている民間人もたくさんいたのだ。通州にも同じ様な経緯で住んでいた。

だから、それは侵略などとは程遠いものだ。もっと現代的にわかりやすく言えば、合法的に国際的に通用するパスポートとビザを取って、米国カリフォルニアに移り住み、そこでアメリカ人相手に商売をする日本人たちが住んでいた街という感じだろうか。

その頃の通州は「冀東防共自治政府」(1935−1938年まで河北省に存在していた政権)の一部にあった。ここは満洲国と同様、国民党軍との緩衝地帯として日本の傀儡政権が治めていた。

その政権のトップにすえられたのが殷汝耕という人物で、彼は早稲田大学に留学経験もあり、日本人女性と結婚していたので適格とされたようだ。

通州事件:その日の惨劇

通州事件が起きた3週間前の7月7日には盧溝橋事件が発生したので、中国全土で緊張関係が高まっていた。

しかし、そんな緊張感高まる中でも通州城内が安全だと思われていたのは、冀東自治政府が親日だったことと、日本軍だけでなく、中国人の保安隊が配備されていたことが理由に挙げられる。

その居留民を守っていたのも一個小隊だけだったので約100名足らずくらいの少ない数の警備隊だった。

それに対して、通州の保安隊として日本から任されていた中国人の数は3000人−4000人以上いたと言われている。

その部隊が突如として、反乱軍として、通州に住む警備隊と一般市民に襲いかかったのが通州事件だ。

この城壁で囲まれた街で、何百名の日本人が、それは世にも恐ろしい方法で皆殺しにされた呪われた街に変わったことは日本人は知らないし、日本の歴史教育でも教えられない。

警備隊も含め、まだ夜も明けないうちに寝ていた居留民約385余名は、反乱を起こした保安隊と反乱に参加した反日感情が高い学生の合わせて3000−4000名という圧倒的な数に突如、襲われたのだ。

そのうち、223名が虐●されたのが、その方法がまたとんでもなく外道なやり方だったので日本中にも戦慄が走ったのだ。

これは当時、蒋介石率いる国民党軍の仕業と言われていたが、歴史検証が進むにつれて実は毛沢東の共産党軍が関わっていたのではという説もでたりしている。

よくよく他にもたくさん各地で起こっていた殺人事件や爆破事件などをみてみれば、共産党軍が国民党軍のふりをして行ったと考えた方が辻褄があうものが多いことに気づいていく。

この事件も同じ様な類だったのだろうか。

とにもかくにも、この日にどんな恐ろしいことが起こったのか生き残りの女性の証言を追ってみてみよう。

ある生き残りの一人の女性が何十年も口を閉ざしていた後、重い口を開いた手記「天皇さまが泣いてござった」が残っているので、我々はその惨劇をほんの少し垣間見ることができ。

その女性は佐々木テンさん。

テンさんは日本生まれだが、中国人と結婚したので、事件当時は通州にいたのだが、旦那さんの助言により中国人のふりをして助かった。

そのおぞましい事件を目の当たりにしたテンさんは、民族の決定的な違いと隔たりを強く感じてしまい、離婚し、日本に帰国した。

テンさんの手記の概要

実際の手記を読んだことがあるが、私は激しい戦慄と悪寒と怒りで、何度も読むのをやめざるを得ない、一度では読み進められないおぞましい内容だった。

ここでは概要だけを書くので、興味がある人は実際に手記を手に入れて読んで欲しい。


午前2時に城門を破って、雪崩れ込んでいた何千名の反乱軍は、城門近くを守っている日本人守備隊が皆殺しにした後、日本人居留地区に向かっていき、そこで惨●が始まった。

この事件はとても計画的だったようで、日本人が住む家の戸にはあらかじめ▲などでチョーク印がつけられていたそうだ。

ある日本人の家の娘と父親

ある日本人の家からは15歳くらいの女の子が引き摺り出され、服と下着を無理やり引き剥がされた。娘を守ろうとした父親は銃で何度も殴られ動けなくなったが、その後も保安兵は何度も銃剣を突き刺し、息絶えるまで続けた。そしてたった今、死んだ体を木の棒を転がす様に蹴飛ばした。父親が殺された後に、全裸にされた娘を陵辱しようとするがうまくいかない保安兵が怒り、銃剣を突っ込みアソコをえぐり取った。父親と同じように惨●された少女は頭を斬られ、父親の体のもとに蹴り転がされた。

数珠繋ぎにされた10名ほどの日本人男性の姿

集められた日本人男性の中には少年もいれば老人もいた。その人達の手のひらに剣が突き立てられ、手のひらをえぐられた。その穴に針金を通し、全員が数珠繋ぎに繋がれた。衣服を剥ぎ取られ、男性器を切り取られた。こんなおぞましい行為をされ恐怖と痛みに悶える日本人達を中国人兵士たちはニヤニヤと笑いながらやっていたそうだ。

旭軒での出来事

その食堂では、二人の女性の衣服がはだけていて、乱暴されたのがすぐにわかった。一人は何度も剣を突き立てられ息が止まった。そしてもう一人は大勢が見ている前で三人の兵士に交互に陵辱され始めた。見物人からの声を気にして、建物に入っていった後はその女性の断末魔の声が聞こえた。

佐々木テンさんは実際に旭軒の中には入っていないが、救援隊の報告では、建物の中には17−18歳の女性の遺体が多数、確認され、それらの女性の下半身にはほうきが突き立てられていたり、口に土砂が詰められていたそうだ。7−8名は陵辱された後に、そのままの姿で銃で撃たれたようで、そのうち5名は下半身に銃剣が突き立てられていた。

その食堂の近くでは逃げていた日本人の老婆に出くわした。追いかけてきた学生が青龍刀をふりかざすと的が外れたのか左肩から腕が切り落とされた。その場で倒れる老婆にさらに刀で何挿しかした後、学生はさった。
テンさんは老婆の額に手をあてた。そっと目を開いた老婆は「くやしい。。」とつぶやいた。「かたきを、かたきを取って欲しい。」。
そして最後には「なんまんだぶ」と唱えて息途絶えた。

妊婦の運命

保安兵に妊婦が囲まれてしまった。旦那らしき人が木刀で立ち向かおうとした。しかし、あちらは何と言っても数が多い。ついに倒れた。その男性を保安兵は刀で小さく刻んでいった。その体の中身を妻の妊婦に投げつけた。それでは飽き足らず、妊婦のお腹を刀で開いて、胎児を取り出し、胎児はまるでボールのように投げられてしまった。

集団虐●現場:「大日本帝国万歳」

50名以上の日本人が1カ所に集めれた。その前には機関銃が2丁あった。その中の一人が勇気を振り絞って「大日本帝国万歳!」と叫ぶと、感化された周りも唱えはじめようとした瞬間に、機関銃の引き金をひかれ叫びは終わらなかった。全員が倒れた後も、まだ息があるものには銃剣でとどめがさされていった。兵士たちが去った後は、中国人の見物人がその死体に走り寄り、身包み剥がして略奪していった。

池の周り

日本人が五十人ほど集められた。さきほど見た、針金で数珠繋ぎにされた男達もいた。合図で中国兵が剣で襲いかかり、倒れた日本人は池に投げ込まれたので、池は真っ赤に染まった。

計画的だった犯罪

先に書いたように、日本人が住んでいる家の戸には事前にチョークで印がつけられていたし、前日には電話線が切られていただけでなく、前夜には完全に城門が閉ざされ、誰も逃げられないようにされたいた状態であったことから、完全に事前から計画していた犯罪ということがわかった。

電話線が切られていたことから連絡が遅れ、救援が駆けつけたのは事件発生から丸一日経ってからだった。

救援の日本兵が駆けつけると、中国兵は散り散りに逃げていった。

建物の壁は赤く染まり、男性の遺体のほぼ全員には首に縄をかけられ引きずられた後が確認された。そのほかにも下半身をえぐられた女性、目玉をえぐられた男性、蜂の巣の様に剣で刺された跡のある男性、手の指がなくなっている子供、鼻に針金を通された子供、散乱した臓器、手足と頭部がなくなっている一家、などなどだ。

当時は大々的に報じられた通州事件

日本の新聞社もこの事件を大々的に報じたので、たくさんの記事が残っている。アメリカのジャーナリストも記事を書いているので、世界的にも知られた事件だった。

通州事件が起こったその年にはすでにこんな歌も作られ歌われていた。

恨みは深し通州城(1937年)

作詞:佐藤惣之助
作曲:古賀政男

1.
思ひ出すたび西空に
熱い涙を手向けませう
二百余人の同胞(はらから)が
露と消えたる惨劇の
恨みは深し通州城

2.
夢もはかなし七月の
二十九日の明けの空
響く銃声(つつおと)物音は
賊か鬼畜か叛逆の
一語に狂ふ保安隊

3.
暗い民家に武器はなく
頼む夫は斃されて
愛し我が子を懐に
内に万歳唱へつつ
大和撫子散るもあり

4.
忘れやうとて忘られぬ
悲し恨みはいつまでも
西に流れて草を染め
赤い廃墟の夕焼けに
秋風寒し通州城


しかし、この事件は他の日本人をターゲットにし起こった大陸での事件と同じく、戦後は闇に葬られ、日本人は歴史の授業で、南京大虐●のことは習うこそ、通州事件のことは一言も触れられないという矛盾の中での教育が進められてきた。

私がこの事件を紹介し、多くの日本人に知って欲しいと思うのは、チャイナ人がしているように相手を嫌いになり、相手への怒りを扇動したいという思いではない。

しかし、こんなことがあったという歴史の事実は知っておくべきだし、民族性というのは一夜で変わるものではない。

不安に思うのは、日本へのチャイナによる内部侵略が着々と進んでいる日本国内で、このような事件が起こっても不思議ではないという点だ。

マスメディアは訪日中国人による「爆買い」インバウンドを嬉々として報じているが、日本のGDPの中では塵くらいの利益しか生まない外国人観光客の買い物の裏で、どれだけの不動産が買われているか。。

IR誘致で話題の大阪には、そこだけではなく既にチャイナタウン化している場所がいくつもある。私が取材したある場所はもう飲み込まれてしまっていた。あそこが日本人の手に戻ることは決してないだろう。

あの様にしてチャイナ自治区の様な場所がどんどん広がっていくのだろう。

あの人達の特徴は自分達が弱いと思っている時は下手に出てくるところだ。しかし、一度、「いける!」と思えば何をしてくるかわからない。

子供から女、老人にいたるまで、ただ殺すだけでなく、わざわざしなくてよいおぞましい行為をいたぶり目的でやったとした思えないこの通州事件を検証するにつけ、戦後の日本政府の甘い外交姿勢に背筋が凍る思いがする。

恨みと悲しみを抱きながらこの世を去ることになった同胞の「気をつけろ」という警鐘を今一度、我々は真摯に受け止めるべき時に来ていると思う。


【今回は『なぜか教えられない日本人惨●の通州事件』について語っていきました。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
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